第54話 康記、白麗を犯し損ねる



 女中の萬姜と引き離されて、まがまがしい部屋に引き入れられた白麗だが、逆らうことなく康記に従った。彼女はもの珍しそうに部屋の中を見まわしている。やがてその視線は卓上の料理から動かなくなった。


「食いたいのか?」

 康記が訊くと、喋らない少女はこくりと首を振って応えた。


 椅子に座らせて料理を皿に取り分け、箸を揃えてやりと、康記は自分の飲み食いを忘れてかいがいしく世話を焼く。酒もすすめたが、これはほんの一口舐めたあと顔をしかめて盃を置く。


『わかっていなようでわかっている。わかっているようでわかっていない。あの白い髪のおなごはそういうおなごだ。美しい見かけに騙されるな』


 叔父の園剋は言った。


 しかしまだ十六歳で恋にのぼせている康記に、その言葉の真意を理解することは無理だ。ましてやこれから好きでたまらない女を抱くのだ。叔父の言葉を思い出す余裕もない。


 美味いものをたらふく食べて満足している白麗を、康記は抱き上げた。腫物を扱うようにして寝台に運びその体を横たえる。


「お父上の正式なお許しを得てからこうなるべきだとは、おれにだってわかっているんだよ。しかし、叔父上がそれでは遅いと言われる。叔父上はおれとおまえの婚儀を急ぎ、そして安陽行きを願っている。叔父上は、おれにとってお父上とおなじくらいに大切な人だ。逆らうことは出来ないんだ」


 少女は金茶色の目で、真上にある康記の顔を見つめたままだ。これから何が起きるのか、理解していない様子だ。


「白麗のことを、お父上の囲い者だとか、英卓兄と深い仲だとか、人はいろいろと言っているけれど。本当の白麗は、男と女のことを、まだ何もしらないんだね。おれ、嬉しいよ」


 寝台の上に身を起こした康記は、無防備に投げ出されている少女の足からくつをぬがせて、足袋をはいだ。涼し気な薄桃色のすかーとの裾がめくれあがって、ふくらはぎと可愛らしい膝小僧があらわになる。肌の白さと滑らかさが、男の手を奥へと誘っているかのようだ。もう、行儀よくしてはいられない。


「大好きだよ、白麗。おれ、おまえのこと、ずっと大切にするから」


 ずるずると寝台の上を這いあがって少女の上にのしかかると、彼は赤い帯に手をかけた。

「痛くないようにするからね」


 そして、瞬きもせず自分を見つめ続ける少女の金茶色の目を見て言った。

「怖がることはなにもないよ。だからさ、その目をちょっと閉じて欲しいんだ」


 そう言い終わったと同時に、彼の耳の中で骨と骨がぶつかる鈍い音がした。

 左目の強烈な痛みはあとからきた。固く握りしめた右手の拳をつきあげて、少女が彼の左目を力の限りに殴ったのだ。


「うあっ、何をするんだ!」


 解きかけた帯から手をはなして、彼は左目を押さえてのけぞった。


 男の重さから自由になった少女が身を起こし、寝台を這って逃げていく。慌てた康記は片手で目の前にある白い足首の片方をつかんだ。しかし、今度はつかみそこねたもう一方の足の踵で思いっきり顔面を蹴られた。それは康記の鼻を直撃し、二つの穴から生暖かい血があふれる。少女のほうも男を蹴とばした勢いで、頭から寝台より落ちた。額を堅い床にぶつけたらしい鈍い音がする。


 しかし素早く立ち上がった少女は、料理や酒の甕が並んだ卓にぶつかり椅子を押し倒したりしながら、狭い部屋を駆け抜けた。そして開け放たれた窓に走り寄り、ためらうことなく窓枠に足をかけて手摺りを飛び越える。


 片手で左目を押さえ、もう一方の手で鼻をつまんだ康記もよろよろと少女のあとを追い、窓のそばに立った。


 窓を乗り越え、危なかしい足取りで瓦の上を歩く白麗の後ろ姿が見えた。雀が跳ねるようなその足取りは、真夏の陽射しで瓦が焼けているせいだろう。視線を下に落とせば、はるか下は人の行き交う大通りだ。


「危ない、戻って来い! ここは紅天楼の三階だぞ!」

 窓から首を突き出して彼は叫んだが、思い直してすぐに顔を引っ込めた。


 半ばほどけた帯を引きずりながら紅天楼の屋根を歩く少女。

 その姿に気づいて大通りから見上げた者は、彼女の身に何が起きたかを瞬時に理解するはずだ。そしてまた血にそまった間抜けた自分の顔も見られたくない。


 部屋の中に一人取り残された康記は思う。


――ここまでお膳立てしてもらいながらしくじってしまった自分を、叔父上は許してくれるだろうか?――


 そう考えると、この部屋で起きたことを忘れるために、酔いつぶれることしか思いつかなかった。すべてが無に帰したのだ。


「ああ、なんてことになってしまったんだ。でも……、でも……。こうなったのは、全部、あの白麗が悪いんだ」


 卓の上の酒の甕を手に取る。

 それを傾けて、立ったままで水のように飲み干す。


 信じられない速さで酔いが全身を駆け巡った。

 空になった酒の甕を抱いたまま、康記は床に崩れ落ちた。


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