第10話 異国から来た三人の泊まり客
騒がしかった蝉の鳴き声も途絶えて、傾いた金色の日差しにものの哀れを感じる夕刻時。客桟・千松園の門に、若い男と女二人の計三人連れが泊り客として立った。
予約のない、飛び込みの客だ。そういう客の見定めは、亭主・黄徐正の役目だ。客桟の亭主をしていると、人を見る目は自然と身につく。
「江長川を渡って来られましたか」
徐正がそう問いかけると、男と女は亭主の不審を察して、草で編んだ笠を外して顔を見せた。
「そうだ、隣国の呉建国から船で着いたところだ。俺は
そう答えた二十代半ばと思われる長身の男の顔は陽に焼け、長旅の途中であることを物語っていた。
「いえ、そのようなことは、あとで宿帳に書いてくだされば済むことです」
「では、三人で泊まれる部屋を頼みたい」
着ている着物は麻を茶色く染めた上衣と
そう思ってもう一人の女を見ると、髪は赤く顔立ちは彫りが深い。こちらは男より、五歳くらい年上だ。そして隙のない立ち姿に、この女も武芸のたしなみがあるに違いないと徐正は思う。顔立ちは似ていないが、二人の醸し出す雰囲気は似ている。夫婦ではなく姉弟なのか。
荘本家の末端に関わる者として、彼らへの好奇心が湧いてきた。
「ご挨拶が遅れました。わたしはこの千松園の亭主で
彼は後ろを振り返ると、控えて立っていた通いの下働きの女に言った。
「お客様に、足水を持ってきてさしあげなさい」
笠を外さぬまま、男と女の影に隠れるように立っていたもう一人は小柄だ。着物のうえから見てとれる骨の細さと肉付きの薄さから見て、まだ大人になりきれていない少女であろうと思えた。しかし笠を外した女が振り返って、「お嬢さま、お疲れになりましたでしょう。今夜はここで休むことになりました」と言う気遣いに、こちらはどうも姉妹ではないようだ。
「ちょうどよい部屋が空いております。二階になりますれば、窓より江長川が見下ろせます。 夜には涼やかな川風も入ってまいりましょう」
上がりかまちに座って足を洗わせている男に、徐正はそう告げた。彼の姉だと思われる赤毛の女は片膝ついて、少女のわらじを脱がせている。女のその献身ぶりと、それを鷹揚に受け入れている少女の関係とはどのようなものであろうか。
「足は痛みますか?」という女の問いかけに、笠が小さく横に揺れる。笠を取り忘れているというよりも、人に顔を見せたくないのか。
そして少女が、細長い錦の袋を背中にたすきに背負って、その紐を胸の前でかたく縛っているのに気づいた。徐正は思った。
――ああ、笛なのか――
客桟・千松園の『江長の間』は二階にある。その名の通り江長川が見下ろせる上客用の部屋だ。
宿帳を持った徐正は、古傷の痛む足を庇いながら、階段を一歩一歩、慎重に上がった。『江長の間』では、趙蘆信と名乗った若い男が彼を待っていた。二人の女たちは奥の部屋で旅装を解いている最中なのか、その姿は見えない。
「宿帳のご記入をお願いに参りました。茶菓子の類いは、通いの女がのちほど持ってまいります」
「承知」
その言葉使いと所作に、かなり旅慣れた若者だと徐正は思う。宿帳に記帳する男の手元を、さりげなく見つめた。よい教育を受けてきた者の字体だ。
「西華国からお越しとは。なんと遠いところから」
「そうだ」
「青陵国は初めてにございますか?」
「そうだ」
返す言葉は短いが、会話を嫌がっていない様子。もう一押ししてもよいだろう。
「青陵国ではどちらへ向かわれます?」
「都の安陽へ行くつもりだ」
「それで、こちらには、何日ほど、ご逗留される予定でございましょう?」
「女たちに旅の疲れが見えるゆえに、数日、厄介になろうと思う」
「さようにございますか。安陽も美しい街並みの都と聞いておりますが、南の都と言われるこの慶央もなかなかに美しい街で……」
「承知」
徐正の言葉の端を折った若者の返事には、亭主がなかなかに席を立たぬことに対するいら立ちが含まれ始めた。おりよく、外で人の気配がする。
「旦那さま、茶と菓子を持ってまいりました」
「おお、それはちょうどよかった。入りなさい」
茶と菓子が卓上に並べられて、女が下がると再び徐正は言った。
「この菓子は、せがれの徐高が作ったものにございます。春に採れました青梅の種を抜いて蜜に長く漬け込んで、海藻の
若い男の苛立ちに気づかぬふりをして、徐正は喋りつづける。そして、女二人がいる隣の部屋を見やった。江長川で楽しむ釣りのようなものだ。釣り針に菓子という餌はつけた。あとは釣れるかどうか……。
その時、隣の部屋との間を仕切っている垂れ布が跳ね上がり、一人の少女が飛び出してきた。慌てて引き留めようとした赤毛の女の手元には、少女の薄緑色の袖のない羽織りものが抜け殻のように残されている。
少女を一目見て、徐正は驚きのあまり声をあげた。
「これは、なんと可愛いらしいお人であられることよ……」
誰に断るでもなく、少女は卓上の菓子の皿に手を伸ばすと、それを目の高さまで持ち上げた。ふるふると揺れる透明な海藻の中で、蜜づけの青梅が薄青色に輝いている。彼女は笑みを浮かべ、右に左にと小首を傾げながらそれを眺める。赤い紐を絡ませて編んだ白い髪が、その背中で可愛らしく弾んだ。
女がため息とともに言った。
「白麗さまは、美味しい菓子に目がありませんゆえに」
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