第13話 趙蘆信、長旅の終わりに想いを馳せる


 客桟・千松園の徐高の作る朝食には定評がある。蒸し立ての饅頭、葉物の漬物、江長川で捕れた鯉の汁もの。たった三種類だが、どれも美味しい。


 湯気の立つ真っ白い饅頭を半分に割って、酸味の効いたまろやかな塩味の漬物を挟み、一緒に食する。そしてその淡白さに物足りなくなると、ほどよく美味い脂の浮いた鯉の汁ものに口をつける。誰もが、朝から胃袋が底なしになったように思うはずだ。


 いつもは小鳥がつついたようにしか食べない藍秀と少女も、そうだった。二人で顔を見合わせて、お互いの食欲にくすくすと笑っている。


 そのような女たちの姿を見ながら、趙蘆信は迷っていた。

――この客桟の亭主は、その言葉も物腰も柔らかい。だが、それはあの男の真の姿か? 早々に出立したほうがよいのでは――

 

 その時、 調理人の徐高を連れて、亭主の徐正が『江長の間』に現れた。皿に盛った饅頭がなくなっているのを目ざとく見て、彼は目を細める。


「昨日の菓子をお客様が大変気に入ってくださったと聞きまして、倅がぜひとも、お客さまがたにご挨拶申し上げたいと申しております」


 徐高が父親の後ろより姿を現した。


「千松園の台所を任されている徐高にございます。まだまだ未熟者ではございますが、お客様のお言葉が励みとなります」 

 そう言いながら、彼は瑞々しい梨を切り分けて盛った皿を差し出した。

「初物でございます」


 二人の女たちが、「しまった、朝食を食べ過ぎた」と、顔を見合わせる。それを見て、亭主の徐正が言った。


「こういうものは別腹と申します。それで、今日はどのようにお過ごしでございましょう?」


 蘆信が口を開こうとしたのを制して、藍秀が答えた。

「昨日、お勧めいただいたように、慶央の街を見物しようと思います」


「おお、さようでございますか。それであれば、徐高に弁当の用意をさせましょう」


「ありがたいことです。こうして三度三度、徐高さんが作られたお食事をいただいていると、ここを発つ日が来るのが残念に思われます」


「こちらこそ、有り難いお言葉にございます。お急ぎの旅でなければ、どうか長くご逗留くださいませ。それでは、弁当の用意をしてまいりますれば、お仕度などをごゆるりと」


 いつになく姉は楽しそうで饒舌だ。


 中華大陸の西にそびえる銀狼山脈の麓から、五年をかけて三人でのんびりと楽しんだ旅だった。「急ぐ旅ではありません。あちらこちらを見てまわりましょう」と、姉はいつも言う。だが、肝心の旅の目的については何も語ろうとしない。あと少しで東の果ての海に到達する。噂では海の向こうには奈落しかないそうだ。となると、旅の終わりが近いのだろうか。

 



 部屋の窓よりせり出したおばしまにもたれて、少女が江長川を見下ろしていた。


 麻布の筒袖の丈の短い上衣を胸元できっちりと打ち合わせ、その下には襞もあるゆったりとしたズボン。薄緑色の袖のない一重の羽織物と幅の狭い黄色の帯。白い髪もまたいつものように、赤い紐を絡めて編み背中に垂らしていた。日中はまだ残暑が厳しいので、涼しげな旅装姿だ。


 人並み外れて美しい少女だが、言葉を発することが出来ない。この五年の間に、蘆信は少女の声を一度も聞いたことがない。また少女はその記憶も長く保てないようで、なんでもすぐに忘れてしまう。すでに、彼女の脳裏には西華国の思い出などないのだろう。

 

 白い髪の色とは対照的な黒く細く形のよい眉の上で、まっすぐに切り揃えた前髪が、微風にそよいでいる。朝日に照らされた江長川の水面の輝きがここまで届いて、その美しい顔をひときわ明るく見せていた。


 少女の横顔を見ながら蘆信は思う。

――あと数年経てば、どのように、美しい大人の女となるのだろうか。なんと、楽しみなことだろう――


 そして、突然、彼は不思議な感覚に捉われた。

 西華国を出てより、五度目の夏が過ぎようとしている。いまと同じ想いにとらわれるのは何度目か。


 

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