第26話 失策
横たわるユイの傍らに、両膝を着いて座り込んだハルトの腕を、横からヨハンがしがみついて何度も引っ張ってきた。
「ハルト兄ちゃんっ、なんとかしてくれよっ。このままじゃあ姉ちゃんが死んじゃうよっ」
自分が助け出されたとき以上に涙を流す幼子に向かい、ハルトは深く頷いた。
「安心しろとは言えないけど、できるだけのことはする」
その決意が伝わったのか、ヨハンはハルトからしがみつくのを止めて放した。
『それで? どうすればいい、エキドナ』
『まずは呼吸を整えろ。呼吸法は判るな。おそらくロレンがいう闘気法と、そう変わらないはずだ。まずは自分の馴れた方法で試してみよう』
『わかった』
力強く、けれど心の中で頷くと、ロレンはさっそく呼吸を整えた。長く深く息を吸い込み、それ以上の時間をかけてゆっくりと吐く。肺の空気がなくなる限界まで息を吐き切った。
(やはりそうだ。ロレンがいう闘気法とは、呼吸によって魔素を取り込む呼吸法だ。これなら体内で充分な魔力が作られるはずだ。……行けるかもしれない)
何度も呼吸を繰り返すうち、だが気づいたことがあった。
(……なんだ、これは? ものすごい勢いで、ロレンの体に魔力が満ちていく)
取り込んだ魔素から、恐ろしい純度で魔力を精製していた。体中に力を蓄え、そのくせ毒素だけを選りすぐって吐き出している。
『それでエキドナ、これからどうすればいい?』
体中に魔力が行き渡ったことを自覚していた。
『体内に溜めた魔力を外に流し、そこにある大いなる存在を意識するんだ』
人は、自分の力だけでは魔法を成立させることができない。だから神や精霊といった大いなる存在と心を通わせ、その力を借りるのだ。
人が空気を震わせて言葉を話すように、神や精霊とは魔力を介して言葉を交わす。
『それは、どうすればいいんだ?』
『ふつうに息を吐けばいい。そこには自分の体内で精製された魔力が含まれている』
『これで、いいのか?』
ロレンは呼吸を繰り返す。体内では効率よく、とても効率よく魔力の循環が行われていた。だがロレンの魔力は100%体内で循環され、外に繋がる魔力が存在しない。
『ダメだ、ロレンは世界と繋がれない』
『それは、どういう意味だ?』
『ロレンが行う呼吸法では、魔法を使うことができないのだ』
「えっ?」という声は、期せずして口から飛び出す。訝しむ顔を、ヨハンが向けてきた。
『恐ろしいほどの練度だ。正直感服する。ロレンの魔力操作は、紛うことなく達人の域だ。私でさえ、そこまでの域には達していないはずだ』
『それなら魔法も……』
呆然と呟いたロレンに向かい、私は静かに心の首を振った。
『無理だ。ロレンは魔法を使えない。いや、正しくは、他者に対して魔法を行使することができない。以前、私がいった言葉を覚えているか? 魔力とは、初級で自分の体に影響を与え、中級で外部に影響を与える。だがロレンは、初級ですべてを終えている。これを極めている。正直称賛に値する。私はキミほど、この力を極めた者を、ほかに知らない』
『なら、魔力の操作が行えるなら、僕にも魔法が使えるはずじゃあ?』
私は再度、首を振る。
『たしかに、魔法そのものは使えるようになるかもしれない。だが、その力では、ロレン自身の怪我を癒すことは出来ても、他人の怪我を癒すことができないのだ』
これ以上ないほどの否定の言葉。
『そんな……いや、そんなはずはない。魔力の操作が行えるなら、可能性はあるはずだっ』
だがロレンは諦めない。
『以前までとは違う。今の僕は魔法の力を信じている。だから、魔力を操ることが出来るなら、魔法だって使えるようになるはずだっ』
執拗なまでに、ユイの傷を癒そうと躍起になる。傷だらけのユイの腕に触れ、それがまるで我が腕であるかのように力の循環を行う。
(だが、それでは無理なのだ……)
それどころか、ロレンが使う力は外へは行かず内へと向かい、損傷した私の体を癒しているような錯覚さえ覚えさせる。
(いや、これは、ほんとうに治癒されている感覚がある。ロレンが以前言っていた、べつの力で同じようなことが出来るとは、これのことか)
皮肉なことに、ロレンの力はすべてユイではなく私に向かって注がれていた。
ゆえに、ロレンの治癒が功を奏したわけもなく、けれどユイが薄く目を開けた。
「姉ちゃんっ、大丈夫かっ。ハルト兄ちゃんが来てくれたからな、もう大丈夫だぞっ。また前にみたいに、今度は姉ちゃんのケガも治してくれるからなっ」
幼い言葉が、ロレンの胸へと突き刺さる。不思議なことに、そんな胸の痛みは、私の胸にも伝わってきた。何とも言えないもどかしい、やるせない気持ちにさせられる。
「……、……ぁ」
ユイは何かを言おうとし、ハルトのほうを見上げた。その目を微かに見開く。それからもう一度口を動かして言葉にする。
「ハルト。戻ってきて、くれたのね……」
「ユイっ、しっかりしろっ。こんな怪我、俺がすぐに治してやるからな」
きゅっと強く手を握ると、ユイが痛みに顔をしかめた。慌てて手を放すと、逆にその手を求められた。慌てて、けれど今度はそっと優しく両手に包む。もちろん、その間も治癒の行使は忘れていなかった。だがやはり、その治癒の力は別の所に注がれていく。
(あるいは、このまま私が回復すれば、ユイの怪我を癒すことが可能なのか)
だがそれは、あまりにも可能性の薄い賭けだった。それまでユイの命が持つとは思えない。
「そんなにいっぱい、怪我をして……また、無茶をして……」
「ユイっ」
もしかしたらユイは、もう満足に目が見えていないのかもしれなかった。ハルトはどこも怪我をしていなかった。オーガトロルに受けた怪我は、どういうわけか私とロレンが入れ代わったときに綺麗さっぱり消えていた。
浅く薄い呼吸を繰り返すユイが、ふと視線を彷徨わせた。そうして口にする言葉は、
「……あなたが、ロレンさんね」
「え?」という声は、私とロレンが、まったくの同時だった。
「……思った通り、優しそうな人……」
「なにを言って……」
この娘は、いったいなにを見ている。
「……そっちの綺麗な人は、大、じょうぶ? ……私より、ひどいケガを……」
『ユイには、私が見ているのか? いや、それどころか、ロレンのことも見えている? それも本来の姿で?』
それはきっと、私たちにも不可能なことのはず。
「……でも、きっと大丈、ぶ……さっきより、きれぃ……」
そこまで息を吐いた。きっともう痛みを感じていなかった。ただ苦しいのだ。
「ユイっ、もういいっ。もういいから何もいわないでくれっ。今は黙って俺の治療に集中してくれっ。言いたいことがあるなら後でいくらでも聞くからっ」
『……黙るのはキミだ、ロレン』
『うるさいっ。黙るのはおまえだっ、エキドナっ』
『ユイは今、わずかな時間を惜しみ、言えることを言えるうちに言おうとしている。それがわからないキミではないはずだ』
ロレンが大きく息を吸い込んだ。その口からはありったけの罵声が飛び出す。そう思われたが、それが実行されることはなかった。
「……そんなに、泣かないの、ハルト……」
ロレンは、ハルトは泣いていなかった。――それでもなお、
「……べつに、あなたの所為じゃ、ないわ……」
そういった直後、ユイの目がまた、ようやくロレンのほうを見た。
「……もし、私がしたことに、恩を感じて、くれるなら……弟を、ヨハンのことを、お願い、します……」
「そんなことをいわないでくれっ、ユイっ」
『わかった。ヨハンのことは引き受けよう。私が責任を持って、彼が一人でも生きて行けるように鍛えてやろう』
『エキドナっ! おまえは黙れっ!』
「……ありがとう、ございます……」
そういった後、ユイはたしかに口を動かし、『エキドナ、さん』そういった。
「……なんだか、少し……つか、れた……ぁな……」
そうして目を閉じ、息を吐いた。
『ロレン。私は今、これまでのキミの気持ちが初めて、痛いほど理解できた気がするよ』
繋いだ手はそのままで、けれど力はなく。
『うるさい……、なにもいうな……、……いわないでくれ……』
なのに、どうしようもなく熱が冷めていく。
『どうか今すぐ、私と代わってくれ――』
立ち昇り続ける黒雲に誘われて、にわかに曇り始めていた曇天の空から、ついに滴が滴り始めた。じきに本降りとなり、炎を上げて煙る村を包み込むだろう。
もはや、すべてが決した。それでもなお、ロレンはユイの手を放すことなく、できもしない治癒の魔法の真似ごとを行い続けた。
いつまでも、いつまでも……。
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