第7話 後遺症
静かな部屋に、浅く繰り返されるテンポの速い呼吸が聞こえた。
「…………」
呼吸する主に、そっと額に何かが載せられた。じんわり広がる冷たい感触は、水に浸して絞ったばかりのタオルだろう。ひんやり心地よい感覚が、火照った顔に薄く広がっていく。
体の持ち主が眠っているためだろう。僕の視界は暗闇に閉ざされている。
どうやら視覚や聴覚、嗅覚などといった感覚は共有しているらしい。だが反面、奇妙なことにケガや高熱の気だるさは伝わってこなかった。
(この体は、一体どうなっているんだろう)
もしかして、ずっとこのままなのだろうか。エキドナが体を操り、僕が精神体として体に寄生しているだけ、という意味だった。
(そんなことになるぐらいなら、僕はあのまま死んでしまったほうが、まだマシだったのかもしれないな)
ふと、ここに来る前のことが、生前のことが思い出された。
酷い戦があった――。
ほんとうに酷い戦いだった。
本来なら絶対に勝つことができない相手であり、その戦いだった。
人と神との戦いだ……。
(僕は、ほんとうに、あいつを倒すことができたんだろうか?)
今でも不思議に思う。何度でも言おう。本来なら絶対に勝てない敵だった。
(あいつは、破壊神は、世界に二つある大大陸のうち、一つを完全に滅ぼした……)
大船団を率いて赴いた僕たちを待っていたのは、変わり果てた大陸だった。
美しい緑を誇る、この世の楽園とまで称された大陸は、草木の一本も生えない不毛の大地へと変わっていた。空には濃密な暗雲が立ち込め、つねに稲妻が響き、土は死に、水は一滴もなく、風は障気を孕んで病んでいた。
世界人口のおよそ半数が暮らす、大大陸だった。
そんな大陸を、破壊神が滅ぼすのに費やした時間は――たったの一週間……。
「ふぅ」
ユイのため息が聞こえ、僕は現実に意識を戻した。
視覚が閉ざされているため、どうしても気持ちが内へ内へと籠もってしまう。
「また、こんな無茶して……」
包み込むような優しい気持ちと、突き放すような呆れた気持ち、それから刺々しい、ざらつく気配が波のように伝わってきた。
最初のふたつは彼、ハルトに向けたものだろう。
(でも、あとの気持ちはなんだ?)
圧倒的なまでの嫌悪の気配に満ちていた。だがそんな気持ちは、村を襲った魔物を撃退した勇者に向けられていいものじゃない。
(……中にはそういう人もいるけど、この子はそういうタイプじゃない)
そういう輩はふつう「無茶をして」などという、気遣いの言葉なんて向けないはずだ。
「魔族を倒したのは、ハルトなのに……みんな、ほんとうに勝手だよ」
(皆というのは、村の人たちのことみたいだな)
まっさきに脳裏に浮かんだのは、魔物を倒したハルトを村人たちが恐れ、彼を村から追放しようとしている、というものだ。
(わりとよく聞く話だけど、あまり気持ちのいいものじゃないな)
そう思っていたが、実際には少し違っていた。
「魔族が持っていた魔石を勝手に売って、そのお金を村の復興に使おうなんて……」
もっと切実な問題だった。エキドナが倒した魔族は中級で、かなり大きな魔力の結晶体、魔石を所持していた。彼らは、これを村の再建のために、ハルトに無断で売り払おうと考えていたのだ。
(僕は、それでもかまわないと思うけど、でもエキドナはなんていうだろう)
そう思っていた矢先、
「別にかまわないよ、それくらい……」
眠っていたエキドナが、目を覚ましたらしい。それで僕にも、ようやく光が戻った。その視界の先で、ユイは真っ暗な部屋に一人いて頬を濡らしていた。
「なにも泣くことはないだろ……」
ボロボロの痣だらけの右腕を伸ばし、ハルトはユイの手にそっと触れた。
痣は打ち身のためじゃなかった。魔力の毒に触れ続けたために起こした後遺症だった。両手両足、胴。魔力の鎧、魔装を纏っていた箇所にこそ、より多くの痣が覆っていた。
「だって、皆があんまり勝手だから……」
紫より、ずっと黒ずんだ色をしていた。それだけに毒々しい。
「前にもいったけど、俺は村の皆の役に立てれば、それで満足だから……」
ユイは無言で、ハルトの手にそっと両手を重ねた。
その痣に、僕は密かに見覚えがある。
(あれは、たしか、僕がこの世界にやってくる前に戦った相手、破壊神に触れてしまった時の症状とよく似てるんだ……)
『障気というのは、魔力のことなのか?』
『そうだ。正確には、悪しき意志を帯びた魔力のことだ。それが障気というものだ。魔力自体は力であって、それ以上でもそれ以下でもない』
『魔族とは、いったい何なんだ?』
人類の敵であり、倒すべき敵だ。それ以外、これまで考えたこともなかった。
いや、違う。……考えようともしなかった。
『魔族は、この世界が生み出したシステムだ』
『世界が生み出した、システム?』
『そうだ。魔族がいなければ、人間は人間同士で争いを続け、いずれ世界を壊してしまう。これを危惧した世界が、自らを守るために生み出したシステム、それが魔族だ』
『馬鹿なっ。それじゃあ世界は、人類が協力して戦わなければ勝てない敵を作ることで、人間同士が争わないようにしたって、そういうことなのかっ』
『覚えはないか? キミがいた世界でも、そういう歴史があったはずだ。魔王がいなくなった世界では、往々にしてあったはずだ。人間同士の争い、戦争が……』
そこまでいって、ふと、エキドナの思考が停滞する。それ以上、なにも伝わってこない。
なのに突然、何かに困惑しているような、迷子の子供が急にキョロキョロと周囲を見回し始めたような不安げな、どうしようもなく心許ない気配が伝わってくる。
『どうしたんだ? エキドナ?』
『いや、なに、魔病の熱にさらされているためか、どうにも記憶が定まらない。少しばかり、記憶の混濁が見られるようだ。大したことじゃない。すこし休めば大丈夫だ』
『そう、だな。あれだけムチャな戦い方をしたんだ、無理もない。今は少しでも休んだほうがいい』
『ああ、そうさせてもらうよ』
そういった次の瞬間にはもう、エキドナは小さな寝息を立てて眠っている。よほど疲れていたのだろう。僕の視界はまた瞼の裏へ、暗闇の中へと叩き込まれた。
(あれが障気で、障気が魔力?)
なら、僕の世界にも魔力があって、魔法はあったのかもしれない。
でも、それなら何故、僕がいた世界には魔法が存在しなかったのだろう。
(いや、本当はわかっていた。僕がいた世界にも魔法はあった。だがそれは魔族にしか使えない力であって邪悪な力、忌むべき存在として教えられてきたに過ぎない)
だが、なぜ人類は魔法という力を捨てて、これを遠ざけたのだろう。
もしかしたら僕は、それこそを知らないといけないのかもしれない……。
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