第19話 符合する世界

 ユイがいないだけで家の中が寂しく感じられたのは、それだけ彼女を頼りにしていた証拠だった。たとえ気まずい空気に包まれていても、その事実は何も変わらなかった。

 ほとんど手を着けられなかった朝食が、その物悲しさを増長させる。

『すまない、ロレン。勝手に名前を借りてしまった』

 一応断っていたが、承諾を待たなかったことを言っているのだ。

『気にするな。まさかあそこで〈エキドナ〉を名乗るわけにはいかなかった』

 食欲は失せていたが、これを無理やり胃の中に押し込んでいく。もしかしたら、ユイが作る最後の食事になるかもしれない。そう思うと残す気にならなかった。

「彼女の了承を得たことだし、出立は早いほうがいい」

 食器を下げたテーブルを振り返ると、当然のようにルールカが椅子に腰掛け、座っていた。その両隣に、せまい部屋に窮屈そうな従者が二人、泰然と後ろに控えている。

「なぜ、当たり前のようにいるのですか?」

「私は今日でもかまわんぞ」

 庶民の話を聞かない騎士だった。はあ~っと盛大なため息で応えると、一転真剣な眼差しを向けてくる。

「あらためて問おう。ハルトよ、いや、ここはあえてロレンと呼ばせてもらおう。ロレン、おまえは一体なに者なのだ?」

 あらためて訊かれた同じ問い。答える義理はなかったが、エキドナは応じた。

「何者といわれても、なんと答えていいものか」

「では、私の質問に答えろ。おまえは自分を死者といった。これは事実か」

「それこそ答えに困ります。自分では死んだと思っていても、それがたしかな記憶かどうかは私にはわかりかねます」

「では、おまえの生まれは、どこだ? 親は何をしていた。やはり魔道士なのか」

「生まれは……」

『生まれはロレーシアだ。東の大大陸中部から東側海沿いにかけて、だいたい半分ほどを占める大国の首都だった』

「ロレーシアです。東にある大大陸でした」

 エキドナは簡略して答えた。

「ロレーシア? 聞いたことがない国だな? それに東の大大陸といったが、ここがその大大陸だぞ。もっと詳しく、どの辺りか覚えているか?」

「え? 東に大大陸が存在するのですか?」

 いきおい聞き返すと、ルールカは刹那、もどかしい顔をした。

「ああ、そういっているが」

 いって、はっとする。目つきが、きゅっと険しくなる。

「まさか貴様、出任せを言っているのではなかろうな」

「あ、いえ、そんなことはありません。私が生前に暮らしていたのは、大陸中部から東側の海沿いにかけてです」

 省略した部分を補足すると、ルールカは目に見えて今一度訝しむ顔をした。後ろに控えた従者二人もまた、同じような顔でお互いを見合っている。

「あの、どうかしましたか? なにかおかしなことでも?」

「ああ、すまない。少し意外に思ってな」

「意外、ですか?」

「ああ、そうだ。なにせロレンが今いった土地というのが、まさにこの地のことなのだ」

 これまで異世界と思っていたが、まさか符合する箇所が見つかるとは思ってもみない。

『西の大大陸は、この世の楽園と称される緑の国だった』

「私の記憶では、西にある大陸は、この世の楽園と称される緑の国だったのですが、今はどうなっているのでしょうか?」

「西の大大陸が、緑の楽園だと? なにを馬鹿なことをいっている。そんなはずはない。どうやらロレンが生きていた時代は、はるか古の時代か何かだったようだな」

 なるほど。だから魔法の知識や技術が豊富にあるのだな。と、ひそかに納得している様子だが、土地の知識は僕なので、残念ながらエキドナの魔術とは無関係だ。

「ですが、ルールカ様」

 口をはさんだのは、若い従者のライナスだ。

「私の記憶では、過去にこの地にロレーシアなどという国が存在した事実はございません」

 二人は異議をはさまなかった。

「おまえがいうなら、そうなのだろう」

 それどころかベルガンは肯定する言葉を返し、

「だが、そうすると……どういうことだ? そのような土地に緑どころか、人が住めるような場所などあるはずもない」

 ギロリっ、エキドナを睨めつけた。助けを求めるよう、エキドナはルールカを見た。彼女は何かを考えていたが、視線に気づくと考えるのを止めた。背もたれに全体重を預ける。抗議するよう、椅子がギィと音を立てた。

「ロレンには悪いが、西の大陸に人が住める場所はない。なにせ西の大陸には、魔王の居城があるからだ。緑どころか不毛の地だ」

『西の大陸が、魔王の住処?……バカな。そんな話は聞いたことがない。それに魔王は、南の海上〈世界の臍〉と呼ばれる大陸に居城を構えていたはずだ。僕たちは、そこに少数精鋭で攻め込み、からくも勝利を収めたのだ。間違えるはずが、ない……』

『落ち着けロレン、ここがまだキミが暮らしていた世界と決まったわけじゃない』

『そう、だな……』エキドナの言葉に、少しだけ落ち着きを取り戻す。だが続いた二人のやりとりに、さらなる混乱を余儀なくされた。

「では、南の海上に〈世界の臍〉と呼ばれる大陸はありますか? 私が生きていた時代には、そこに魔王の城があったはずなのですが」

 瞬間、ルールカは何をいっているか判らない顔をした。後ろの二人に顔を向ける。二人は似たような表情を主に返し、何とも形容しがたい顔で首を振った。

「世界の臍とやらは知らないが、南の海上には、たしかに大陸がある」

 顔を戻したルールカが語る。

「だがそこは世界でも指折りの神聖な場所だ。そこに魔王が、魔族が存在するはずがない」

「神聖な場所なんですか?」

「ああ、そうだ。なぜなら、そこにあるからだ。この世界の中心と繋がっていて、この世に魔力を供給している聖なる七本の樹木の一本〈世界樹〉がな」

 世界樹。だが僕は、その言葉にこそ聞き覚えがない。やはりこの世界は、僕が知る世界とは違うのかもしれない。……そう思っていたのに。

「世界樹っ!〈宝樹〉が、あるのですか? そこに?」

 その名に大きな反応を示したのは、むしろエキドナのほうだった。

「そう、宝樹だ。なんだ、おまえも知っているではないか」

「ですが、七本あるとは、どういうことですか? 世界樹は、この世にただ一本のはず」

「ふむ?」と悩み始めた。考える時のクセなのか、ルールカは顎に手を当てる。

「おまえの記憶の問題だろう。世界樹が七本あるのは、れっきとした事実だ。世界中で確認が取れている。逆にもっとあるというなら考えもするが、これ以下はあり得ない話だ」

 存在を確認している者と、無いと思い込んでいるだけの者。ここはその認識で正しい。僕もそう思う。存在を証明するのは簡単だ。これを実際に見せればいい。だが無いと証明するのは難しかった。俗にいう、悪魔の証明というやつだ。

 魔族はいるが、悪魔はいない。このふたつはまったく別の存在なのだ。

 ……僕も、しばらく前までは、そう思い込んでいた。

 だが、悪魔はいた。――破壊神という名の悪魔が。

 神と悪魔の証明は、じつは紙一重だ。その存在が人に都合がよければ神と呼ばれ、悪ければ悪魔と呼ばれる。それだけだ。じつに身勝手な、じつに人間らしい解釈だ。

「どうやらロレンは、ずっと昔に死んでしまった者の魂か何かのようだな」

 本当に、そうだろうか? だが、ところどころに破綻は見られるが、今はそれで納得するしかないかもしれない。やはり情報が少なすぎるのだ。

(でも、なんだこの奇妙な符号は? 僕が知る、僕がいた世界の事情と、エキドナが知る、エキドナが生きていた世界の事情が、ところどころで合致している奇妙な違和感は?)

 全部が違っていれば、それだけの話だ。エキドナがいった通り、僕たちはまったく別の世界の住人ということになる。

(なのに、僕がいた世界の地図と、この世界の地図は意外なほど似通っている)

 なのに、ところどころで地名などに大きな違いが見られた。

(エキドナはエキドナで、この世界にある世界樹の存在を知っていた。さらにそれが宝樹の名で呼ばれることも知っていた)

 だが、その数が違った。エキドナは一本といったが、ルールカは七本あるという。

(本当に僕とエキドナは、この世界のはるか過去からやって来たのか?)

 いったい、なんのために?

(今の僕たちが、エキドナがしたことといえば、何人かの命を救ったことと、ユイを不幸にしようとしている事実だけだ……)

 これでは、あまりにも割に合わない。これがエキドナだけなら、魔王の魂が転生を繰り返しているだけとも考えられた。だが、ここには僕という異分子が付属していた。そこには絶対的に、なにかしら明確な目的と理由がなくては納得できない。意味がなかった。

(仮にエキドナの存在意義を、魔王のためにあると仮定して。すると僕の存在意義は、その魔王を倒すことか?)

 だが今、その魔王と勇者が一つの体に同居していた。これでは意味がなかった。

(それに僕は、エキドナが悪い奴とは思えない。そりゃあたしかに、ときどきは人間のことが心底嫌いなんだって思うことはあるけど、でもそこには明確な理由が存在する)

 身勝手な人間や、理不尽を他人に押しつけようとする人間にだけ、エキドナは剥き出しの嫌悪と敵意を示すのだ。だがそれは、むしろ逆にいい奴だと実感するばかり。

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