第18話 ロレン

「……ハル、ト、じゃない?」

 少女の口から溢れた声に、目の前に立つ男が静かに頷く。

「そうだ。僕はロレン、ハルトじゃない」

 再度告げた言葉を追うように風が吹き、二人の間を隔てていった。

「………………」

 何かを言おうと唇を震わせたユイは、けれど何もいわず、何も言葉が出ない様子で呆然と、それでいて全身を強く強張らせ、ゆえに激しく小刻みに震える。

「ただ勘違いしないでほしいのは、この体がハルトのものであること、それは事実だ。違うのは中身だけ。――そしてハルトは生きている」

 瞬間、ユイの体が小さく跳ねた。ゆっくりと、恐ろしくゆっくりと顔を上げる。

 そうして見つめる瞳は、何かを求めるように揺れていた。

「ヨハンが僕を変わらないといったのは、そのためだ。僕にはその時々において、ハルトから知識を与えられていた。今までなにも教えなかったのは、こんな話、いっても信じてもらえるとは思えなかったからだ」

 じっと成り行きを見つめていたルールカが、「ふむ」と頷き、小さく挙手する。

「つまり、おまえの魔法の知識は、ハルトではなくロレンのものということか」

「そうなります」

「で。ロレンという、おまえは何者だ?」

 エキドナは首を振る。

「生前は魔道士だったとしか」

「なるほど、生前ときたか。つまり記憶喪失は、ロレンのほうというわけか」

「そうなります」

 答えを聞いて、ルールカは顎に手を当てた。ものすごい勢いで何事かを考え始めた。おそらくは、この状況で如何にしてエキドナを勧誘できるか、そればかりを考えている。

 質問が途切れると、エキドナはあらためてユイを見た。ユイはさきほどの顔のまま固まっていて、まるで時間が止まってしまったようだった。

「ユイ、ハルトは生きている。だから僕は、いつかハルトが目を覚ますまで、この体を守らなくてはいけない。その間だけでいい。僕がハルトの体を使うことを許してほしい」

「…………っ」

 ユイは何かを言おうとして口を開け、ただ息をもらした。

「いつハルトが目を覚ますか、それは僕にもわからない」

「……っ」

「もしかしたら、もうこのまま目を覚ますことはないのかもしれない」

「っ」

「それでも、その時がくるまで、ハルトの体が生きることを認めてほしい。ほかでもない、ハルトがもっとも気にかける存在であるキミに」

 僕が聞いても、この言い方はずるいと思った。生きることを許してほしいとは、拒絶すれば死ねということだ。しかもその身体は、ほかでもないハルトのものだ。

「……勝手なことばかり、いわないで」

 ユイは怒るでなく、吼えるでもなく、押し殺した声で呟いた。ぎゅっと瞑った両の瞳からは、今度こそ大粒の涙がこぼれて落ちた。

「勝手は承知の上だ。わかってる。それでも僕は、キミに縋らなくてはいけない。ハルトには貸しがある。この体の壊疽を癒したことだ。でも、それとは別に、ユイには借りがある。この体を守っていてくれた。そうでなければハルトは死に、僕はここにはいなかった」

「私は何もしてない、何もできなかった……」

 大きく首を振ると、目端の滴が小さく跳ねた。

「そんなことはない。たとえわずかな延命だったとしても、そのわずかがなければ救えない命だってある。僕がドンゼさんの奥さんを助けたのは覚えているはずだ。あれだって本当なら、いつ死んでもおかしくなかった。それをわずかな延命により、僕に治療を繋ぐことができたんだ。だから今、ミゼラさんは生きている」

 やはりエキドナは賢くてずるい。ユイに向かって、ハルトの体で生きることを乞うと同時、ユイの功績を大きく認め、同時に命の大切さを説いている。またそれが、自分が救済の使徒であると訴えていた。

 おそらくユイの中では今、幼馴染であるハルトと、我が身の危険をかえりみず外敵に挑み、さらには負傷した人々を癒すハルトが、天秤の両皿に載せられている。

 一人の少女が望む少年と、多くの人が求める少年――これが秤に掛けられている。

 結果はいうまでもない、卑怯なまでに決まっていた。

「……ハルトは、本当に、帰ってくるの?」

 押し殺したように噛み殺した声でユイはいった。それは否定ではなく、けれど肯定もしていない、ほかに選択肢を与えられていない諦めの声。

「必ず返す。生きている限り、僕はそれを諦めない」

 断言したエキドナの声を、きっと彼女は聞いていなかった。

「出立する日が決まったら、私にも教えて、ください……」

 それだけ言い残すと彼女は、ユイは自分の家へと帰っていった。そのあまりにも弱々しい足取りの小さな背中が、ドアの向こうに消えていくのを見送ったあと、

「ずいぶんと卑怯な言い回しをするのだな、キミは……」

 そういったルールカの声には、それこそ反論は山とあったが、けれど今はエキドナが聞こえないフリをして飲み込んだ。きっと自分でも、その自覚があるのだろう。

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