第17話 騎士の帰還

 翌朝。この日もユイは、いつものように朝食を作りにやって来た。手慣れた、軽快な調べの包丁の音を耳にしながら、エキドナはそっと少女の後ろ姿を見守っている。

 ユイは容姿が整っていることを除けば、その辺の村娘となにも変わらなかった。農業と酪農に従事し、これらを食し、余裕があれば売って生活の糧とする。そしていつかは誰かの元に嫁ぎ、やはり農業と酪農に従事する。

『彼女には、本当のことを話そうと思う』

『そうか。いや、そのほうがいいかもしれない』

 エキドナと僕、二人の思いは一致していた。今すぐではないとしても、エキドナはいつか旅に出ることを決めていた。ほかでもない、魔王の元を訪れるために。

 やがて料理が出揃うと、ハルトとユイは揃って食事に手を伸ばす。最近はいつもそうであるように、どこか気まずい空気の中、一緒に朝食を採る。

「ユイ。話があるんだけど、聞いてくれるか?」

 しばらくして、エキドナのほうから切り出した。

「……なに? どうかしたの?」

 ユイはゆっくりと顔を上げた。しかしその目が、近しい誰か、親しい相手に向けるものとはどこか違って感じられた。いや、なにかしら決意を秘めた者の目だ。

「今すぐじゃないけど、俺はいずれ――」

 ドンドンドンっ。ふいに家のドアが強く叩かれた。村の人たちには時間を気にせず、いつでも呼んでくれといってあったが、今の音には緊急性を告げる緊迫感を感じなかった。

「ふぅ」

 エキドナとユイは、まったく同時に息を吐いた。どちらも焦らされ、邪魔されたという思いと同時、どこかほっとした気の弛みを感じる。

 思わず脱力すると、ドンドンドンっ。再びドアが叩かれた。

「出なくていいの?」

「わかってる。いま出るよ」

 やや億劫な足取りでドアを開けると、立っていたのは騎士ルールカと二人の従者、ライナスとベルガンだった。彼らは武装を整え、馬を連れている。これから国に帰るのだ。

「朝早くすまない。だが我々も時間がなくてな。申し訳ないと思ったが、押しかけさせてもらった」

 言葉とは裏腹な、まったく悪びれていない物言いに、僕は内心で苦笑を浮かべた。エキドナはあからさまに迷惑顔を浮かべたが、あのタイミングでは無理もなかった。

「昨日の件でしたら、すでにお断りしたはずですが」

 エキドナはルールカの誘いを断った。「わが国のため、その力を貸してほしい」そういった彼女の誘いをだ。エキドナには、ハルトにはこの村を守る義務がある。

 これにルールカは「そういうことなら、村には20人の兵を常駐させよう」といった。人口100人程度の村に、これは最大限の譲歩といえた。

 だがエキドナは再度断った。「それだけの兵で、中級魔族を倒せますか?」

 答えはノーだ。その程度の兵力では中級魔族どころか100体の魔物を撃退できたかどうかも疑わしかった。いって悪いが100人の雑兵より、たった一人のエキドナのほうが遥かに強い。エキドナは歴戦の猛者だった。本来の体なら、僕だって勝てるかどうか判らなかった。

 そもそもエキドナは、まだまだ力を隠していた。底を見せていなかった。

「わかっている」ルールカは頷いた。「だがそういわれて、はい、そうですか、では失礼します。というわけにはいかないのも、わかってもらいたい」

 いって一呼吸、彼女はハルトの後方に見える少女を確認するように見た。瞬間、嫌な予感がしたが、すべてが遅い。ルールカは逡巡する面持ちで続けた。

「おまえにはやはり、例の赤い石の精製を手伝ってもらいたい」

 彼女はむしろ、ユイに聞かせるために言ったと気づく。

「……赤い石って、あの魔石のことだよね?」

 当然聞こえた話し声に、ユイが顔を覗かせる。

「そうだ」答えたのは、ルールカだ。

「あれを、また作るの?」

「そうだ。それだけの仕事だ」

 ユイはハルトに尋ねたが、答えたのは、やはりルールカだった。

「だから、この村に居ながらでかまわない。それを我々が定期的に回収する。それだけだ」

「…………」

 ユイは黙って固まっていたが、やがて笑みさえ浮かべて息を吐く。

「はぁ~っ、なによもぅ~っ。なんかずっと怖い顔して考え込んでるみたいだったけど、そのことを黙っていたのね。やだなぁ、もぅ~。私はてっきり、ハルトがどこかに行っちゃうのかと思って、ずっと訊くに訊けなかったんだからね。もう、やだなぁ。それならそうと、もっと早く言ってくれればよかったのにぃ」

 はっきり言って、最悪のタイミングだった。これでますます言い出しにくくなる。

 事実、エキドナは目をつむり、しばしの逡巡のあと目を開けた。

「いや、そうじゃない。俺がさっき言おうとした話は、いずれ俺が旅に出ることをユイにいっておきたかったからなんだ」

 意外にも、このタイミングでいきなり切り出した。笑顔から一転、ユイの顔が硬直する。それでも笑おうとして、けれど強張る顔を向けてきた。

「……旅に出るって、どこに行くの? ほかに行くところなんて無いでしょ?」

 あまりのショックの大きさに、怒りと悲しみ、寂しさ、落胆……その他無数の感情を詰め込んだ、なんとも歪な表情を張りつかせている。

「どこに行くか、どこに向かうか、それは俺にも判らない。でも、だからこそ俺は本当の自分を見つけないといけない気がするんだ」

「それはハルトが記憶喪失だからだよっ」

 怒ったような泣き顔で、ユイは剥き出しの感情をぶつけてきた。

「ハルトがいる場所は、いるべき場所は、最初からずっとこの村なんだからっ」

 本心であることは疑いようもない。いっていることも概ね正しい。だが、ただ一つの間違いは、言葉を向けた相手がハルトではないという事実。あるいは、ハルトの居場所が村ではなく、自分のところと言えていれば、ハルトの魂はまた違った反応を見せたかもしれなかった。だが今回は、彼はなにもいわない。ハルトの魂は何も反応しなかった。

「今の俺に一番大切なのは、ユイを守ることだから」

「なによそれ? 全然意味が判らない。そう思うなら、どこかに行くなんていわないでよ」

 ハルトの中にいるエキドナは、もしかすると魔王エキドナの魂かもしれない。それが言えない以上、説明するのは難しかった。最悪、ハルトが討伐の対象になる。

 真実なんて関係なかった。危険かもしれない、それだけで理由としては充分だ。

 二人の間に沈黙が下りると、ややあってルールカが口を挟んだ。

「旅に出るといったが、行くあてはあるのか?」

 エキドナはゆっくりと首を巡らせ、「いいえ、ありません」と答えた。

「なら、旅費はあるか? 仮に一人旅だったとしても、それなりに必要だぞ」

「旅費は……」正直もっと当てがない。そもそもハルトに金はなかった。旅をしながら考えればいい。それぐらいに考えていた。金はないが、力はあるのだ。

「なら、その旅費を稼ぐためにも、やはり私の元で働かないか。仕事は同じでかまわん。例の魔石の精製だ。当然一つだけ作って居なくなられては困るが、一定期間、一定数を精製してくれれば、そのあとは自由にしてくれてかまわない。どうだ? 悪い話ではあるまい」

 悪い話どころか、願ったり叶ったりというやつだ。一定期間という制限は気になるが、それでも一年も働けば、村への恩返しも含めて充分な稼ぎになるはずだ。

 だが、これに異議を唱えたのは、

「勝手に決めないでくださいっ」

 硬直から抜け出すユイだった。

「ハルトはただの村人です。だから、そんな大それた力なんて持っていません」

 幼馴染を連れて行こうとする騎士に対し、真っ向から立ちふさがる。

「いや。この男には、ハルトにはこの国の危機を救える力がある。それは確かだ。そんな人間の邪魔をするなら、お前は国を危険に曝す者として処罰しなければならない」

「結局は力づくですか? 権力を使って、ハルトに無理やりいうことを聞かせるつもりで」

 なおも反発するユイに向かい、ルールカは右手を突き出した。真剣な眼差しで問う。

「そもそも、おまえはこの男のなんだ。おまえにハルトのやることを止める権利があるのか」

 問われ、ユイはうろたえた。

「私は、ハルトの幼馴染で」

「ただの幼馴染に、相手の行動を制限する権利などありはしない」

「でも今は、怪我をしたハルトのお世話をしています」

「ならば、その仕事は終わりだ。見てのとおり、ハルトはどこも怪我などしていない。であれば、やはり幼馴染にハルトの邪魔をする権利はない。――違うか?」

「いや、だから俺は、ルールカ様の誘いに乗るつもりは無いと、そういっているわけで」

 見かねて口をはさんだが、

「おまえは黙っていろ。私はこの娘に訊いている」

 理不尽なまでに遮られた。だが視線は真剣そのもので、余計な口出しを許さない。

 ――自分は、ハルトの何であるか?

 悩めるユイは、逆にルールカに問う。

「それは、私がハルトの恋人なら、納得するという意味ですか?」

「妻ならともかく恋人では少し弱いが、……まあ納得はしよう」

「いやいやいや。納得はしようって、それこそルールカ様は俺の何なんですか?」

 エキドナは訴えかけたが、もはやハルトの言葉など誰も聞いていなかった。ただ一瞬、ハルトの物言いに嫌悪の眼差しを寄こしたベルガンを除いては。

 じっと幼馴染を見据える少女の瞳は、これを見返す少年の視線と重なり合い――。

 束の間。

 ふっと泳いだハルトの、エキドナの逸らした視線を目の当たりにして。

 静かに、ゆっくりと首を振る。

「……わからない。以前のハルトなら、そうだと言えたかもしれない」

 いって、きゅっと唇の端をかむ。

「でも今のハルトからは、いくら記憶喪失っていわれても、目の前にいるはずのハルトの声がまるで聞こえて来ない」

 今にも泣きそうな顔で、でも涙は見せない。そうしたら、すべてを認めたことになる。

「いきなり強くなってもかまわない。いきなり知らない知識を身に付けてもかまわない」

 信じたもの、信じようとしたもの全部がなくなってしまう。そういわんばかりに。

「でも、いきなり知らない誰かになられたら、どう接していいかわからない。今のハルトが悪い人じゃない、それはわかってる。……でも、私が知ってるハルトじゃない」

〈あなたは、いったい誰なの?〉

 いわなくても、その目が語っていた。もしかしたら、僕とエキドナが気づかないフリをしただけで、ずっと彼女はそう問い続けていたのかもしれなかった。

 思えば、ユイはいつだって一歩引いたところからハルトを、エキドナを見ていた。これまで彼女に何もいわなかったこと、伝えようとしなかったことが、今更のようにのしかかる。彼女は最初から気づいていた。以前、エキドナがいった通りだ。結局、僕とエキドナの身勝手が、ユイの人生を大きく狂わせようとしていた。

 エキドナがいなければ、ハルトは死んでいた。これは事実だろう。でもハルトを助けたからユイの人生が狂ってしまったとしたら、それは本当に正しかったのだろうか。

『僕たちは取り返しのつかない選択をしたのか?』

〈死んだほうがマシだ〉本当に、そんなことがあり得るのだろうか。生きていれば、何度でもやり直せるのではないか。

 その身の苦痛と、心の苦痛――本当に辛いのは、どっちだろう?

 もしかしたら、今このときが、本当のことを伝える最後のチャンスかもしれない。

 だが一瞬はやく。

「記憶喪失が事実なら、人が変わったように感じるのは当然ではないのか?」

「黙れ、ベルガン」

 口をはさんだベルガンが、手痛く、冷たく切り捨てられた。

「おまえは私が記憶喪失になったとして、それで私がおまえのことを何も覚えていなかったとして、それで私が別の誰かになったと思うか」

 突然の問いかけ、だが男は一切の迷いなく即答する。

「いえ、そんなことはあり得ません。たとえ記憶がなかったとしても、ルールカ様がルールカ様である本質のようなものは何も変わらないはずです」

 再度の言葉に、満足そうに首を振る。

「そうだ。彼女はそういう意味でいっている。なのに、たったそれだけのことで本質が変わったと思えるのは、今のこやつが偽物か、これまでのこの男のすべてが偽りであったか、そのどちらかということだ」

『正解だ』まさかそういうわけにもいかず、僕は心の中でエキドナを見る。

「記憶喪失が、それだけのことか? それをいわれたら、俺だってユイが誰か――」

「ヨハンは、弟は、ハルト兄ちゃんはいつもと同じだって、そういっていたわ」

 皆まで言わせない反論……いや、最後まで言わせたくなかったのだろう。

 エキドナは長く深く息を吐く。

「いきなり魔法が使えるようになった俺が、いつもと変わらないってことか」

 ユイは無言で首を左右に振る。

〈変わらないのは本質のほう〉これは、そういう話だ。

 ハルトが変わって見えたユイと、いつもと同じといったヨハン。どちらの言葉も本当なら、ハルトはユイの前でだけ変わってしまったことになる。

 仮に、これまでのハルトがユイと接するときだけ、ほかの人とは違うように振る舞っていたとしたら、それはユイにしかわからない何かがあっても不思議ではなかった。

 事実。ハルトは度々、エキドナにそう訴えかけてきたではなかったか。

『ハルトにとって、それだけユイが大事だったということか』

 いったのは、エキドナだった。僕たちは、これを履き違えた。単純に、そういう心の機微に疎かったからだ。……僕とエキドナ、どちらもが。

『ユイが弟の、ヨハンの命の恩人というだけでハルトの世話をしてきたわけじゃない。それは判っているつもりでいた。でも僕たちは、もっと根本的なことを理解していなかった』

『もちろん言葉としては理解していた。でも、それはハルトの問題であって他人事だと思っていた。……結局はそういうことか』

 エキドナはユイを気にかける一方、ハルトを蔑ろにし過ぎたのかもしれなかった。

(それは、僕も同じだ……)動くことも、しゃべることも出来ない僕だが、エキドナとだけは話せた。でも相談しなかった。やはり他人事だと思っていたからだ。

 今するべき答えは一つ。それが判っていても、なおも僕はいうことができない。

 そんな僕の心の声が聞こえたわけではないだろうが、

『すまない、ロレン。君の名を借りる』

 いってエキドナは、顔を上げ、真っ直ぐにユイを見つめていった。

「僕はロレンだ。ハルトじゃない――」

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