第43話 サジャ=イナン

 門を飛び出した騎兵の群れは、見張り台の上から見ると銀の鱗を煌めかせる一匹の蛇のように見えただろう。

 見通す魔物の軍勢は、まだ準備を整えていなかった。完全に機先を制した形となる。なかにはすぐさま動いた魔物もいたが、それは数匹だけで物の数ではなかった。

『よしっ、いけるっ』

 そう思った矢先、前方から巨大な火球が飛来した。直径10mほどもある大火球だ。しかも相対速度で、かなり速い。即座に反応したエキドナはともかく、後ろにいる大多数が直撃を受ける軌道であった。

『エキドナっ』

『いわれなくても判っているっ』

 剣から鞘を抜いての抜刀術。瞬時の判断で魔力の斬撃を繰り出し、迎撃した。向かってきた魔物相手にぶっ放す予定でいた魔力を、これにすべてを費やした。

 刹那。前方で大爆発。火球が弾けて爆散した。周囲に爆音と激しい炎をまき散らす。多くの馬がおののき後ろ足に立ち上がって、このうち数名が落馬した。

「ちっ。この威力の火球ってことはっ」

 爆炎冷めやらぬ炎の向こうに、それ以上の炎を燃やす魔族、アークデーモンがこちらに片手を突き出して立っていた。反対の手には、炎を具現化させた鞭を携えている。

「……ようやくだ。ようやくこの手で、貴様を八つ裂きにできるっ」

 なにやら呟き、アークデーモンが両腕を大きく広げた。

 刹那。周囲の空気が歪に揺れた。辺りから、なにかが急激に失われていく。

『これはっ』

『周囲の魔力を掌握しているっ』

『いきなりかっ』

 まったく油断していないどころか、魔族は最初から全力だ。

「貴様に魔力は使わせぬ。ほんの一片足りともだっ」

 だがそんな動きは、ほかの魔族たちも意外だったらしく、なにやら急激に慌て始めた。抗議するような目で、アークデーモンを見ている。だが睨み返されて、すぐに諦めた。すごすごと別の場所に移動していく。

『まずいっ。散開されると対処しきれないぞっ』

『わかっているっ。だがっ、こいつを野放しにはできないっ』

 なにをしでかすか判らなかった。わかっているのは、ただ一つ。なぜか異常に、エキドナを意識しているということだ。

 僕が背後の気配を確認し、うろたえる兵士たちの動きを伝えた。この相手からは一瞬足りと目が離せなかった。いや、離してはいけなかった。

『レッサーデーモンは彼らに任せようっ』

 レッサーデーモンは一○人で掛かれば一匹を倒せた。

『だがっ、グレーターデーモンはどうするっ』

 グレーターデーモンは二○人で挑んでも一匹倒せるかわからなかった。

『極力相手をさせるなっ』

 それを混戦状態でやれというのは酷な話だ。

『そんないい加減なっ』

『エキドナは一刻も早く、目の前のアークデーモンを倒すことに集中しろっ』

 どの道、こいつを倒してしまわないことには始まらなかった。なにも終わらない。

「くっ」と息を吐き、エキドナは馬から降りた。「後ろの誰かを助けてやってくれ」

 ぺんっとお尻を叩くと、ダンタリオンは言われた通りに後退した。

 そうして改めて、難敵アークデーモンと対峙する。だが初めて会うはずの敵は、なにやら妙に殺気立っていた。しかも徐々に強く、さらに険しくなっていく。その殺気は周囲の大気をも揺らし、ほかの魔物はおろか魔族をも近づかせない無為の結界を形作った。

「初めまして……のはずだが、なにか気に障ることでもしたかな?」

 おどけた態度でエキドナは言ったが、魔族はまったく相手にもしない。

「貴様の口車には乗らぬよ。わしが求めるのは貴様との対話ではない。その命だ」

 魔族の見た目が、そのまま年齢とは思わないが、それでも青年にしか見えない容姿で老人の言葉で話されると、あまりにも違和感が拭えなかった。

「残念だが、わしは少しばかり強いぞ」

 言葉と同時、アークデーモンの衣の色が濃くなった。緑から深緑、やがて滲んで紫へと変色していく。さらに衣服が変貌して硬質化、鎧のような姿に変わっていった。

『あれは魔装かっ』

『いや、似たようなものだが少し違う。上級魔族が纏う衣は“闇の衣”と称される障気を具現化した防具でもあるが……いや、たしかに、あれはどちらかというと魔装に近いか?』

 この敵には、なにやらいい知れない違和感がある。

「ときに人間よ、サジャ=イナンという名に聞き覚えはあるか?」

「いきなりだな。……知らないが、それがどうかしたのか?」

「いやいや、知らぬでも無理はない。なにせ名乗った覚えはないからな」

 それで知らないか、は無理がある。……だが、これは。

「その口ぶり、以前どこかで会ったことがあると見ていいのかな」

「ああ、そうだとも。なにせわしは、以前貴様によって滅ぼされた中級魔族じゃからな」

「なにっ。……いや、そんなはずはない。そうであれば、おまえはすでにコアの魔石を失っているはずだ。そんな状態で復活することなど、あり得るはずがないっ」

「ああ、そうだとも。じゃからこうして上級魔族アークデーモンとなって蘇ったのだ。すべては貴様への恨みつらみを糧として、元の姿を失うことでなァ」

 吐き出す言葉の節々に、斬りつけるような冷気、殺気を感じた。あるいは障気を。

「それがどれほどの苦痛と屈辱であるか、貴様にはわかるはずもあるまいっ」

「そうか。そういうことなら中級から上級になれて、おめでとうといっておこう」

「くくくっ。じゃから、口車には乗らぬよ」

 言葉こそ冷静だが、その視線には殺意が増した。気の弱い者であれば、その視線だけで気絶したかもしれなかった。それほどの凄味と覇気がある。

「じゃが、それもこれも我が主の力添えがあってのこと。それ自体には感謝しなくてはなるまい。おかげでこうして貴様を、直接我が手で殺すことができるのだからなっ」

 言葉と同時に炎の鞭が飛んできた。これを手にする剣で打ち払う。ふつうの剣なら炎を素通りしたはずだったが、魔力を帯びた魔道純銀のおかげで弾き返せた。

 同時に息を吸い込み、

「させぬっ。辺り一帯に貴様が利用できる魔力は存在せぬわっ」

 連続して放たれた火球の雨と、縦横無尽に振るわれる炎の鞭を躱し、ときに剣を振るって切り払う。焦った魔族は大きく飛んで後退し、鞭を放棄し、両手を前に突き出して極大の火炎球を放とうとして。

「っ!」

 一瞬はやく。駆けつけたエキドナの剣が、その腕を切り落とした。魔族はさらに後退し、残る片手で火炎球を放ってきたが、これは剣の一振りで弾き飛ばした。

「なっ、なぜだっ、なぜ魔装も使わず、それほどの力を行使できるっ」

「おまえに言ってもわからないさ、きっとな」

『闘気法は、言ってみれば〈魔族殺し〉の戦闘技法だ』

「わしは中級から上級に“降格”させてまで、貴様を殺すために時間と力を費やしたというのに、そのすべてが無駄だったというのかぁーっ」

『この世界の歴史書を調べたときは、ほんとうに驚いたよ。まさかアークデーモンとの戦闘が、たった数回しかなかったなんてね。よっぽど平和な世界なんだろうな、ここは……』

『あるいは、何らかの力で押さえ込まれているのかもしれない』

『たとえそうだとしても、僕がいた世界では一日に数百体のアークデーモンと戦うなんて、それこそ日常茶飯事だったよ』

 そして当然、そのすべてに勝利してきた。エキドナの考察によれば、魔力領域の奪い合いとは文字通り大気中にある魔力を奪い合う行為を指す。だがこれは、もともと大きな魔力を持つ魔族のほうが圧倒的に有利だ。ふつうの人間には太刀打ちできない。エキドナのような魔法の天才でもない限り不可能といっても過言ではない。

 だが闘気法は、呼吸によって〈大気中から魔素〉を取り込み、これを力にかえる。

 つまり、いくら魔力を奪われても一切の影響を受けなかった。

「悪いが、時間がおしい。このまま押し切らせてもらうぞっ」

 いって踏み出すエキドナは、上級魔族サジャ=イナンがその手に溜めた魔力と、

「……くっ、ばっ、バカ……な……」

 その身を包む魔装の鎧ごと、その身体を一刀両断に断ち切った。ボロボロになって崩れていく身体からは、障気にまみれた拳ふた回りほど大きな魔石が獲得された。

『このアークデーモンが以前倒した中級魔族だったのは、かなり幸運だった』

 深く息を吐き出して、エキドナはそういった。

『この石は、コイツの新しい核ということでいいのか?』

 距離を取って戦われたら、かなり苦戦していた。きっとそのことを言っている。

『いや、おそらくだが、こいつが憑りついて身体を奪ったアークデーモンの核だろう』

 自分の手で殺したかった。それはこの魔族も言っていた。

『それって、サジャ=イナンとかいう魔族は仲間の身体を乗っ取っていたということか』

 エキドナは頷いた。

『核を持たない魔族が生きられるとしたら、そうするほかにないからな』

 だがエキドナは、なぜ、そのことを知っていたのだろうか。

 あらためて、それを考えないわけにはいかなかった……。

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