第25話 ロレン立つ

 大上段から振り下ろされた金棒が、まるでナメクジが這う速度で迫るのが見えていた。これが世にいう走馬灯かと覚悟すると、体中から全ての感覚が、ふっと消え失せた。

 ついで感じた全身を貫く感覚は、どういうわけか突き上げた右腕から伝わってきた。

 視線を上げると、金棒を受け止めた右腕が、鋼の強度を誇る金棒をバキバキと音を立てて握りつぶす様が視界に映った。

『……なんだ、これは?』

 続く動作で左拳を腹へと振るい、くの字に下がった下顎目掛け、渾身の右拳をかち上げた。

 それだけで、たったそれだけの攻撃で、体長5mはあろうかという巨大オーガの体が数mも持ち上がり、そのまま数十mも後方に吹っ飛んでいった。……それが、たった今、満身創痍の我が身が行ったこととは、とてもではないが信じられない。

 それでいて。長く深く息を吐き、

「力が、まるで入らない……」

 呟いた言葉は、完全に常軌を逸していた。いまさら気づいたように、自分の両手をまじまじと見つめる。

「これは、どういうことだ? 僕は今、自分の意思で体を動かしているのか?」

『どうやら、そうらしいね』

「その声は、エキドナか?」

『ほかに誰がいる?』

「いや、だって、声がまるで違う……」

 言われて私も気づいた。

『なるほど。キミの声もハルトのものだ。これまでのロレンのものとは違うようだ。さらに私のほうでは指一本動かせなくなった。どういう理屈かは判らないが、完全に主導権が入れ代わってしまったらしい』

「主導権っていうのは、体が入れ代わったということか?」

『いや、体を動かす権利だが……キミはなにを言っているのだ?』

『いや、だって。今の僕は、どこも怪我をしていない。エキドナが負った怪我が、どこにもないんだ。だからすぐに動くことができたわけで』

『言われてみれば』そのとおりだ。私は怪我を負って倒れていた。ロレンが立ち上がったことさえ覚えていない。見ていなかった。

『このわずかな時間で、精神だけでなく、体まで入れ代わったのか?』

 なんとなく、全身に奇妙に違和感があった。……重症、なのだろうな。心の目を閉じると、過去の経験から、そのことを理解する。

「姉ちゃんっ」

 突如聞こえた幼い声に、ことの重大さを思い出した。

 いつの間にか、ヨハンがユイの傍にいて、地面に膝をついていた。

 取る物も取り敢えず駆けつけると、見るも無残なユイの姿が飛び込んできた。腕はへし折れ、足はひしゃげ、全身が血に塗れている。それこそ全身の骨という骨が折れていた。

「ユイっ!」

 彼女の隣にしゃがみ込み、ロレンは固まった。心の目が、こちらを向くのが判った。

『エキドナ、僕はどうしたらいいんだ?』

『どうにも出来ない』心の中で首を振る。『残念だが、どう見ても致命傷だ』

『そんなことは判っているっ。だからどうすれば魔法が使えるかを聞いているんだっ』

『覚える気か? この場で魔法を? ゼロから?』

『一かゼロかは関係ない。この場で僕が魔法を、治癒の魔法を使えなければ、ユイの命を救えない。それだけだっ』

 とても強い決意を感じた。言葉ではない、体の奥底から直に。この男は本気だった。

(だが、それは可能か。たしかに以前、私はロレンが使う力を魔力の操作と仮定した。そして今では、それが正しかったと確信していた。オーガを殴り飛ばした、あの力だ。あれは間違いなく魔力操作による肉体の強化だった。ハルトにはあれほどの力はない。それは同じ体を使っていた私だから断言できる。同じことをやれといわれても、きっと私には不可能だ)

『もしかしたら……素養は、ゼロではないかもしれない』

『ならっ』

『だが、魔力操作と魔法の行使は、まるで意味が違う。まして、ロレンもすでに自覚しているはずだ。いつもの自分にできたことが、ハルトの体では行えないと』

 私は魔法がほとんど使えず、ロレンはまるで力が入らないといった。その弱体化は、目を覆ってあまりある。たとえ技術はあっても、これを振るう力がなかった。

『だが、私としても、このままこの娘を死なせるのは忍びない』

『それじゃあ!』

『ああ。やるぞ、ロレンっ』

 ロレンは無言で力強く頷いた。

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