第3話 外敵襲来

 体を動かす主導権はエキドナの側にあるらしく、僕の意志では指一本、視線の一つも自由に動かすことができなかった。また、僕の意志は語りかけるようにして呼びかけたときにのみ、明確な声となってエキドナに伝わるらしい。これは逆も然りなので、疑いの余地なく、すんなり受け入れられた。

『私は最初、ユイから声をかけられた時、とっさに記憶喪失を装うことで、今の自分に起きている状況を誤魔化した』

 夕方になり、ユイはまたやってきた。甲斐甲斐しくハルトのお世話をし、一緒に食事を採ると、しばらく話をして帰っていった。陽が沈み、窓の外はすっかり暗くなっている。

『当然だろう。まさか今の自分は別人であり、中身だけが入れ代わっているなんていって見ろ、それこそ頭がおかしくなったと思われるに決まっている』

 理解はする。でもそれは不誠実じゃないかと、そう思う。だが同時に、どうすればよかったと問われれば、僕としても答えることができなかった。

『同じ頭がおかしいと思われるなら、ケガの影響で記憶喪失になったといったほうが、まだマシということか?』

『そうだ。少なくともケガをした経緯を考えれば、多少なりと同情してもらえるからね』

『でもそんな、騙すみたいなこと』

『悪意を以て偽るわけではない。抜き差しならない事情により、ほかに方法がないからそうするのだ。ましてこの少年の体は、私がいなければ、すでに死んでいてもおかしくなかったのだからな。そしてそれは君にとっても同じことだ』

『さっきもいっていたが、それはどういう意味だ?』

『どうもこうもない。この少年の体は、すでに壊疽を起こしていた。知っていると思うが壊疽は死病だ。それほどの重症だった。それを私が魔法を使って癒したのだ』

『……魔法だって? なにを言ってるんだ、あなたは?』

 聞き捨てならない単語が聞こえ、僕は納得しかけていた言葉に嫌悪を抱いた。

『そんな物語みたいなことが、現実にできるわけがないだろう』

『なにを言っているは、君のほうだ。魔法が物語の中のものだって? 君は本気でいってるのか? 馬鹿馬鹿しい。魔法が使えない存在など、この世のどこにもあるものか――』

 瞬間、二人の間で気配が強張り、エキドナはここにはいない何かを見つめるように遠く虚空を見つめた。にやりと微笑む。

「気づいたか?」

『そこらこそ』

「ちょうどいいと言っては不謹慎だが、私の力を少しだけ君に見せてやろう」

 自信満々に言い放ったエキドナを、僕は心の目で見つめた。その言葉が大言壮語でないことを、僕は心の中ですでに認めていた。


 家を飛び出すと、そこは小高い丘の上だった。遠く下のほうが騒がしい。魔物の気配はまだ遠いようだが、カンカンカンカンッと打ち鳴らす警鐘が、ここまで響いていた。

 エキドナは脇目もふらず、一直線に丘を駆け降り始めた。

『それで、どうするつもりだ?』

 心のうちで、僕はエキドナに呼びかける。

「どうするもなにも、さっきいった通りだ。君に、私の力を見せてやる」

 魔法の力を? そう返しかけて、僕は口を噤んだ。だが言葉にしなくても気配は伝わったらしく、エキドナがふっと口元を歪めた。

「君がどう思おうと事実は変わらない。あるものは有り、ないものは無い。それだけだ」

 町というにはあまりにも小さい、村が見えた。そこにユイの姿を見つけ、エキドナが駆けていく。そこには五人くらいの男女が一緒にいて、まだ遠くから叫んだ。

「ユイっ、状況はっ?」

 弾かれたように振り返り、ユイが目を大きくして、口元を押さえた。

「えっ? ハルトっ? あなたどうしてっ?」

「そんな話は後でいい。それより状況を教えてくれ」

「村にまた魔物が近づいているんだっ」

 動揺するユイを尻目、一緒にいた男がまくし立てた。見るからに全身が強張っている。ほかの連中も同様で、僕は大丈夫だからと、よっぽど声をかけて回りたかったが、今の僕には不可能と理解し、エキドナにその役割を任せようと意識を向けた。

「もしかして、自分が何とかしようとか言い出すんじゃないわよね?」

 だが一瞬はやく、硬直から抜け出したユイがいう。勘がいいのか、もとよりハルトがそういう人間だったのか、彼女の声は震えていた。

「大丈夫だ、なにも心配することはない」

「なにが大丈夫なのっ。あなた、少し前まで死にかけていたのよっ」

 本気で怒る少女の姿に、僕は感心するとともに心地よい安らぎを覚えた。この子はほんとうにいい子なのだろう、そう思う。

「でも今は見ての通りだ。問題ない。それにユイだって不思議に思ってたはずだ。たしかに死にかけていた俺が、今こうして元気に動き回っていることを」

「っ、それは……」

 ユイが言葉に詰まる。当然だ。なにせ壊疽。ハルトが死病を患っていたことは、はたから見ればすぐにわかったはずだった。おそらく匂いも酷かったはずだ。そんな人間が翌日には歩き回っていれば、これを疑問に思わない人間なんていなかった。

「死にかけたことが原因なのか、どうやら俺には少しばかり不思議な力が備わったらしい」

 平然と嘘をついたエキドナを、僕はまたユイとは違った意味で感心していた。あるいは、まったく嘘ではないのかもしれなかった。

「その力を皆のために使いたい、そう考えるのはおかしいかな?」

「でもっ」

 口を開きかけたユイよりも一瞬はやく。

「その力っていうのは、魔物を倒せる力なのか?」

 すがりつくような男の声。これに、ほかの声が追随する。

「村は助かるのかっ」

 誰も彼もの言葉には、わずかな期待と圧倒的な不安に満ちていた。

「少なくとも、多少のケガでどうにかなることはありません」

 エキドナは豪語するが、村人たちは不満顔で納得しない。なにやら言いたそうな顔をしきりに向け、お互いの顔を見合わせている。でも面と向かっては何もいわなかった。

『ようするに、私の心配をしてるわけではなく、自分たちの安全の保証をしてほしいのだ』

 答えたのはエキドナであって、僕じゃなかった。だけど言いたいことは判る。……僕にも、それは身に覚えがあったから。

『でも、それは仕方ないことだ。力を持たない者が、より強い力を持った者から逃れたいと考えるのは、しかたないことだって、僕はそう思うよ』

 僕の懇願する声を聞きながら、けれどエキドナは心の中であざ笑った。

『ふん。力を持つ者の傲りと、力を持たざる者の傲りだな』

『たしかに、そういうことはあるかもしれない。でも、皆がみんな、そういうわけじゃないはずだ』

『そうだな、君のいう通りだ。少なくとも彼女は違う』

 いって、ユイに視線を向けた。

『彼女は純粋に、この男の身を案じている。だが、ほかの連中はどうだ。誰も彼もが我が身の保身ばかりで、その安全を勝ち取ろうとして立ち上がった男のことなど顧みようともしないではないか』

『なら、力を持たない者は自分の心配をしてはいけないと、あなたはそういうのか』

 返しながら、すでに気づいていた。この言葉こそ、さきほどエキドナがいった力を持たざる者の傲りであると。

『安全とは、確約されたものではない。何かしらの形で、誰かが対価を支払うことで勝ち取らなくては得られないものだ。だがそうすることは、けっしてたやすくはない。その安全を脅かそうとする相手が巨大であれば、あるほどに』

『でも、あなたにとっては驚異ではない』

『もちろん。そしてそれは、キミにとってもだ』

『なら、僕が代わりに戦う』

『なるほど。ではどうぞ。できるものなら、やってみるといい』

 エキドナは内心ほくそ笑み、投げつけた。その心の動きが伝わってくる。

 僕は必死に体を動かそうと躍起になるが、でも結局は、なにをどうやっても指一本、視線ひとつ動かすことが出来なかった。

『……諦めなさい。今の私たちが置かれている状況は、きっと誰にも説明なんてできない』

 それこそ神でもなければ――。

『神っ』

 その言葉が、今の僕にとってはなによりも屈辱だった。僕の仲間を殺し、僕たちの世界を脅かした存在もまた、エキドナが口にする神なのだから。

 力むことを止めた僕を理解して一転、エキドナがふっと優しく微笑んだ。

『安心しなさい。魔物を撃退することは、今回においては私の中にあっても、すでに決定事項だ。心優しい少女のこともあるが、それ以前にこの体の持ち主ハルトのためでもある』

『体を使わせてもらっている、その対価としてか?』

『それもある。が、それだけじゃない――』

 答える瞬間、わりと近い遠方から、いくつもの悲鳴が混じって聞こえた。どうやら長話をしている状況でなければ、口論・討論をしている状況でもなさそうだ。

「話は終わりだ。少し急いだほうがいいかもしれない」

 エキドナは僕と村人たちに同時に宣言し、声が聞こえたほうに走り出した。

 これに反論するつもりは、僕にも彼らにもなかった。

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