第12話 眠れない夜

 窓から入る月と星明り以外、まったく光が差し込まない部屋にいて、ハルトことエキドナはベッドの上で両手を天井に向け、手のひらを返した。見つめる両手の平に、すでに障気にさらされた痣はなかった。場所が限定されていたためか、今回の治癒は早かった。

「ユイに気づかれたかもしれない……」

 想像を口にしながら、そのじつ確信している口ぶり。エキドナは上げた手を降ろした。

『たとえそうだとしても、エキドナは正しいことをした。僕はそう思うよ』

「仕方がなかった。そういってしまえば、その通りだ。でも私は私である前に、やはりハルトでいなければいけなかった。そう思うわけだよ」

『ハルトにはハルトの人生があるから?』

「いや、ユイにはユイの人生があるからだ。この際、ハルトのことはどうでもいい」

『さすがに、そんな言い方は……』

 寝返りを打って横を向く。手狭な部屋に、物はほとんど置かれていない。そういう指向というより、お金がないので物が買えないだけだった。

「これは私の言葉ではない。きっとハルトのものだろう。正直、私にはどっちでもいい」

 本気で言っていた、そう思う。少なくともエキドナは嘘をいっていなかった。

「それよりも、これからのことを話しておきたい」

 姿勢を戻して天井を見上げた。染みの浮いた板張りの天井に、暗闇に浮かぶ三つの点が見えた。それが人の顔に見えたかどうかは、その人によるだろう。

『いきなり、どうしたんだ? そういうことは明日でもいいだろ』

 今日はもう休め、そういう意図を込めて言ったつもりだが、エキドナは首を振る。

「そういうわけにもいかない。きっと私たちがこの地にいれば、また魔族が来てしまう」

『なんだって? どういう意味だ?』

「この前、村が魔物に襲われた時、その魔物の性質について私とロレンの意見は一致していた。だが魔族がいった言葉は、私たちが知らない魔物のあり方だったのを覚えているか」

 少し考え、言葉を返す。

『魔物は本来、魔族が発する邪悪な波動によって操られているはずだけど』

「そうだ。この世界の魔物は、どういうわけか魔族に、いや、魔王に心酔しているとあの魔族はいっていた」

『でもアレは、あの魔族がいっていただけで、ほんとうのことは僕たちには判らない』

「もちろん、そうだ。でもね、私はほんとうのことだと考えている」

『なぜ、そう思う?』

「あの時点で、あの魔族が嘘をいう理由がないからだ。でもそれ以上に、そのことを確信している自分がいる。もしかしたら、ハルトの記憶がそう思わせるのかもしれない」

 もしそうなら、ユイに訊けば判るはずだ。そう言いかけて、今の彼女とは少々気まずい関係にあることを思い出す。あのあと、ユイは夕食を作りにきてくれたが、その際には一言も口を利かなかった。エキドナも体調が悪いふりをして、ベッドの上に寝てやり過ごした。

『彼女は、ユイはどの時点で、ハルトのことを怪しいと思ったのだろう』

「ほとんど最初からだろうな。ハルトの壊疽を私が治した。その時点でおかしいと思うのは、なにも不自然なことじゃない」

『でもユイは、そんなことは一言もいわなかった』

「ハルトは彼女の幼なじみだ。なにより弟の、ヨハンの命の恩人でもある。いなくなってしまったとは、思いたくなかったのだろう」

『でも実際、まだ死んでいないのだろ? ハルトの心は、魂は生きている』

「間違いなく。だが、それをどうやって証明する。人はたしかな根拠がない限り、おいそれと信じてはくれないぞ。逆に、ハルトではない証拠ならいくらでもある」

 証拠どころか、すでにいくつも見せつけていた。魔法という形でだ。そして今回の魔石の件は、少しばかりあからさますぎた。

「話が逸れてしまったが、とにかく私たちはこの村を襲った魔物ばかりか魔族を追い払ってしまった。だがこれは仕方のないことだ、そうしなければ死んでいたかもしれないからな」

『魔族を倒した。だからまた魔族を差し向けられるかもしれない。そういうことか』

「そうだ。でもほんとうの問題は、また別のところにある。君も覚えているはずだ。あの魔族が私たちのことを〈特異点〉と呼んだことを」

〈つまり、おまえさんが特異点か?〉

 あの魔族は、たしかにハルトを、エキドナを〈特異点〉と呼んだ。

『我が主も酔狂なことを言い出すものだ、と。たしか、そんなことを言っていたな』

 エキドナが、にやりと笑う。

「そうだ。つまり、どういうわけか、この世界の魔王とやらは、私たちのことを知っているということだ。それがどういう形でなのか、それはまだ判らないけどね」

 なるほど。そう思いかけて、僕はエキドナの言葉に引っ掛かりを覚えた。

『……この世界の魔王はって、どういう意味だ?』

「どうもこうもない。そのままの意味だ。ここは私たちが生きていた世界ではない。どこか別の世界だろう。そうでなければ、これほどまでに魔族と魔物のあり方が違ってしまっていることに説明がつかないはずだ」

『それは、そうかもしれないけど……でも、それだけで別の世界と言われても、すぐには理解できないというか、さすがに納得できるものではないぞ』

「私はともかく、君のほうは、もっと明確なはずだ。この世界には魔法の知識がふつうにある。魔法の存在を理解していなかったキミとしては、ここはまさに異世界のはずだ」

 魔法のことを言われると、僕としてはなにも言えなくなる。まだ、ここが死後の世界といわれたほうが理解しやすい。納得しやすい。

『なら、そんな異世界の魔王が、なぜ僕たちのことを知っている』

「それは、私にも判らない。ただ、何がしかの力を感じたのかもしれない。私の魔力であり、キミが持っているかもしれない未知の力を」

『未知の力といわれても、僕としてはエキドナの魔法のほうが、ずっと未知の力だ』

 ふふっ、とエキドナが笑った。

「そうだな。だが私にとっては既知の力だ。なに一つ不思議なことはない」

『そういうことなら、僕の戦いは〈闘気法〉に依存している』

 いった瞬間、エキドナが心の中で首をひねるのが判った。

「……とうき、なんだって?」

『闘気法だよ。人が持つ生命エネルギーを爆発的に高め、これを使って肉体を強化する技法だ……知らないのか? 闘気法を?』

 もどかしそうに寝返りを打つ。さきほどと同様、部屋の奥の闇を見つめた。

「知らない、というか意味がわからない。なぜそんな無駄なことをする。人ひとりが持つ力なんて、たかが知れている。その点、魔力は有限ではあるが無限といって差し支えない。どちらの力を使ったほうが効率的かなんてこと、いちいち言わなくても判りそうなものだ」

『それをいうなら、魔力だって充分おかしい。なぜ体内に毒を取り込むのだ。そっちのほうが不条理だ。治癒の魔法には感動したが、その結果あなたの体はどうなった』

 このまま不毛な言い合いに発展すると自覚しながら、それでも僕は止められない。

 そう思っていたが、

「ふむ、一理ある。そもそも私はキミの、ロレンがいう闘気法がどういうものかを知らないのだから、これを知りもせずに否定するのは卑怯だ。その点については詫びておこう」

 意外にも、エキドナはすぐさま自分の非を認め、謝罪した。

「だがロレンの話を聞く限り、その闘気法とやらは、私が知っている魔力操作による肉体強化と近い気がする」

『そうなのか?』

「ああ、そうだ。そもそもロレンは魔力を知らなかったわけだからな、これを知らずに使っていた可能性は充分にあるはずだ」

 なるほど。つまりエキドナは、あくまで闘気法などという力は存在せず、それは魔力によって引き起こされた現象であると、そう言いたいわけなのだ。

「聞こえているぞ、ロレン。だが、そういわれると自分でもそんな気がするな」

 いってエキドナは、からからと朗らかに笑った。また天井を見上げる。

「ちなみに魔力は、初級で自分の体に影響を与え、中級で外部に影響を与える。そして上級になると外部から力を得ると同時、これを固着させることが可能になる」

『大気中から魔素ではなく、直接魔力を吸収することと、魔装という力のことだな』

「そうだ。ちなみに肉体強化は、初級魔力の扱いになる」

『そういう考え方なら、たしかにエキドナが闘気法を魔力操作による肉体強化と考えたのは納得がいくな』

 闘気法が、呼吸に始まり呼吸に終わる技術である以上、少なくとも似たような効果を発揮する力であり、その性質ということになる。

 その後、しばらく返事がないと思っていたら、エキドナは短い時間で覚醒と浅い眠りを何度も繰り返していた。

『もう休め。そんな状態で考えても、まともな答えなんて何も浮かばないだろう』

 そういった後、エキドナは、これに返事を返す余裕もなく、すでに眠っていた。

 一方、僕は眠ることもできず、一晩中エキドナがいった言葉について繰り返し考えを巡らせて過ごした。

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