第28話 帰還
豪奢な外装をした馬車が街の大門をくぐり抜け、ローエンヴァリス国バルツシルト伯領城下クルムスリットの街へと入っていく。馬車の様相然り、門番に羊皮紙を一枚示しただけで通されたところを見ると、乗っていたのはそれなりの権力者とわかる。
「帰ってくるのは久しぶりだな。あいつはヘソを曲げていないといいが」
遠い目をして呟くと同時、あくびを一つ。
「はしたないですよ、ルールカ様」
見目麗しい淑女のあられもない姿に、従者の男が苦言を呈した。遠慮のなさは、付き合いの長さの表れか。
「悪い悪い。だが、私たちのほかには誰もいないのだから良いではないか。それに、滞在期間よりも移動時間のほうが長いのがいけないのだ」
バルツシルト伯領は治安がよく、主要な通りに盗賊や山賊、夜盗の類が出ることは、ほとんどない。そのため先々代の領主が築いた行路が領土内の端から端まで伸びていて、武装もロクにしていない馬車が問題なく通行できた。時間こそかかるが、それほど身の危険を感じることなく歩いて旅をする者があるほどだった。
広大な領地の治安がいいと、人々の交通が活発になる。このため商業が発達し、各地の生産品を領地内だけでなく、ほかの地域へと輸送することができた。
実際、領土内でも土地によっては小麦がよく育つ所があれば、あまり育たない所がある。だが代わりに葡萄酒や織物などが大量に作られた。こうすることで、それぞれの土地で、その土地に適した作物や生産品を作ることができ、そのぶん安価に大量に流通させることができた。
「いや、やはり一番悪いのは、私の目の前でぐうすか寝ている、こやつが悪い」
ルールカは腕組みし、静かに寝息を立てる男に顎を向けた。
「顎で指すのはお止めください。それに彼は、明け方近くまで急に言いつけられた仕事をこなしていたのですから、仕方ないかと」
横目に一瞥。従者の男が、含みを持たせた言を吐く。
「なんだ、ライナス。おまえは、こいつの肩を持つのか」
「肩ではなく、事実です。おかげで急な商談も上手くいったではありませんか」
「それはそうだが、納得がいかん。なぜ寝ている、こやつはよくて、あくびをしただけの私が怒られなければいけないのだ」
「はしたないからです」
「差別だ。私は女である前に騎士だ。おまえの物言いは侮辱でしかない」
「騎士であれば、むしろ人前で、あくびなどしないで下さい。油断がすぎます」
「おまえは、いつも小うるさい」
いった傍から、走る馬車が急停車し、ルールカは前のめりにつんのめった。ライナスは背中を壁に打ちつけ、軽く息をもらした。だが寝ているはずの男は、微動だにしない。
「どうしたっ、何事だっ」
街の外なら敵襲を想定するが、ここが安全な防壁の内側となれば話は別だった。
「申し訳ありませんっ。急に子供が飛び出してきたものですからっ」
「なんだとっ」
御者の言葉が先か、返事が先か、ルールカはすでに飛び出している。こういうとき行動が早いのは彼女の美点だが、ライナスではないが油断がすぎる。この子供が敵が放った間者ではないと言い切れないからだ。
「大丈夫かっ。どこも怪我をしてないだろうなっ」
見ると、馬車の傍に子供が倒れていた。6、7才くらいの女の子だ。
「あ、あの、……ごめんな、さぃ……」
身なりのいい女騎士を目にするなり、少女は顔色をなくして激しく震えた。
「いや、待て。なぜそんなに怯えているのだ……」
身分が高い者の通行を邪魔した咎で、いったいどんな罰が与えられるかと怯えている。
「私はなにも、おまえに危害を与えるつもりはないぞ」
「あなたは声が大きいのですよ、ルールカ様」
馬車から降りる男が一人、さっと歩いてきて、少女の前にしゃがみ込んだ。
「足を怪我したようだな」
転んだ拍子に擦りむいたらしく、ひざ小僧に血が滲んでいる。
「寝坊助が、少女の悲鳴に目を覚ましたか」
ふんっと鼻息を荒くして、女騎士が腕組みする。
「そうかも、しれないな……」
少女の怪我した足に手をかざし、男はそっと癒しの力を込めた。すると少女の足の傷は見る間に小さくなって、すぐにふさがる。
「これでよし。もう飛び出したりするんじゃないぞ」
少女は男を見て、騎士を見た。顔を戻し、笑顔で手を振る男の意図を察したようだ。
「あ、ありがとう、ございますっ」
慌てた声でお礼を言って、走り去る。これを見送って、騎士は今一度、鼻を鳴らした。だが今度は力なく、先とは違う意味が込められていた。
「……いつまでも女々しい男だ」
「性別の批判は、差別で侮辱じゃなかったのですか」
「なんだ貴様、起きていたのかっ」
慌てる騎士には目もくれず、男は空を見上げた。
「今日は温かいな」
あれから一年が過ぎた。季節はめぐり、また春がきた。ルールカとの契約はじきに終わる。その後のことは決めていなかった。彼女からは再三、契約の延長を要望されていたが、気分は乗らない。
風に乗って、遠く潮の匂いが微かにした。懐かしさの中に、遠い記憶の哀愁が滲む。
「おいっ、ハルトっ、聞いているのかっ」
(聞いていたのは私ではなく、ロレンだけどね)
あの日、負傷したエキドナに代わって体の主導権を得たはずの僕は、翌日には元通り、また入れ代わっていた。
『おそらくだが、負傷した私の傷をロレンが癒したからだろう』そういったエキドナの言葉が真実かどうかは、これを確かめるには、あまりにもリスクが大きすぎた。
『もう一度私が瀕死になれば、そのときはロレンが表に出るはずだ』
それで失敗すれば、死んでしまう。
再び馬車に乗り込むと、ライナスが笑顔で出迎えた。
「おつかれさまです、ハルト」
「ライナスこそ、お疲れさまだ。道中、ルールカの相手は大変だっただろう」
「ええ、それはもう。人前では凛々しい方ですが、ちょっと目を離すとだらしない」
「誰がだらしないだっ、誰がっ」
馬車の枠組みに手をかけて、夜盗のように乗り込みながら騎士がいう。
「おや、聞いていたのですか、ルールカ様。聞き耳を立てるとは、はしたない」
女主人が乱暴に席に着くと、あらためて馬車は走り出す。
「ハルト。貴様とは一度、よ~く話をする必要がありそうだな」
「おや? 私がハルトだと、よく判りましたね」
「やかましい。ロレンがそのような下らないことをいうわけがなかろう」
ルールカたちには、ハルトの中にもう一人、別の人格が宿っていることを告げていた。
圧倒的な戦闘能力を秘めた戦士ロレンと、名も無き古の魔道の知識を秘めた魔法使い、この二人の魂が宿っていることを。名も無き魔法使いでは通りが悪いので、エキドナはいなくなってしまったハルトの名前を便宜上、使用していた。
『……城が見えてきたな』
『ああ、そうだな』
この後のことを考えると、僕もエキドナも憂鬱になる。
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