第70話 自分も幸せなら他人の幸せも願えるって信じたいんだ。


「すみません久保さん、こんな無茶なお願い聞いてもらって」


 私は席から立ち上がって深々と久保ヒカルとその彼女に深々と頭を下げた。店のウェイターや客が一斉に私の方を見た。


 今日、私は2人にナベシマの裁判に傍聴人として来てもらうよう頼みにきた。それと久保の傷の具合の確認も。だけどパッと見る感じマシロちゃんと鮎川によって付けられた傷はもうすっかり完治したようで安心した。


「良いんです。少しでも貴方達のために何かできるなら」と久保ヒカルは言った。


「そうですよ冬梅さん。周りのお客さんも見てますし」と彼女が言ったところで私は再び頭を上げ席についた。


 「ここはコーヒーゼリーが美味しいんですよ」と久保の彼女が言った。


 私の目の前には真っ黒いプルプルのコーヒーゼリーが目の前に置かれていた。なんだか気まずくて私はスプーンいっぱいにコーヒーゼリーを口に頬張った。


「あ、待って冬梅さん!!それ…」と彼女の制止は少し遅かった。あれ?この味なんか違うぞ。


「にぃっぁあああああ!」


とてつもなく苦かった。よくスーパーで食べる3個で100円のコーヒーゼリーとは全く違った。


「ごめんなさい!言うのが遅くて、このコーヒーゼリー純度100%でお砂糖何も入ってないのよ。後からガムシロかけるスタイルで…」と彼女はオドオド説明しながら私に水を渡した。



 そんな私を見て久保ヒカルは、ふっ…と笑った。そして一瞬で笑みを消した。


 笑ってて良いのに。


「僕は鮎川さんに黒瀬さんに死んで詫びても許されないことをした…」


「はい…」


 それはそうだ。罪のない親子をレイプして殺した。そんなの一生償おうとしても償うことはできない。


「なのに…僕は…僕はこのまま生きてて良いんでしょうか…?」


「…」


 私はなんて返せば良いかわからなかった。私が「死ね」と言ったら本当にこの人は死んでしまう。それくらい自分の生死を真剣に迷っている人の発言だった。


「僕はあの時、鮎川さんに殺されてば…」と久保が頭を抑えて言ったところに店のドアがカランカラン!と勢いよく鳴った。


 のしのしと歩く足音、スタスタと小股で歩く音。これは…。


「何をグズグズしている桜!とっとと帰るぞ!」


「やめてください鮎川!ここお店!怒鳴らない!!」


 イダと黒瀬さんだった。


 久保は顔が引き攣り手はブルブルと震えた。そして反射的に土下座をした。今度は久保の彼女も止めなかった。そして私も止めなかった。いや止めちゃダメだった。


 イダは大事なお嫁さんと娘を

 黒瀬さんは大事な姉と姪っ子を


 レイプされて奪われた被害者遺族だ。部外者の私が入ってはいけない。


 黒瀬さんは目に涙を溜めて拳を握りしめて堪えている。一方のイダは膝をつき久保ヒカルの胸ぐらを掴んだ。


「イダ!暴力はダメ!」


 胸ぐらを掴まれた久保ヒカルはボロボロと涙を流していた。


 「お前と会うのは今日と明後日の裁判で終わりだ。一切会うことはない。」


「…はい」


「その後は金輪際、俺の前に姿を現すな。現したら殺す」


「はい」


「そして、お前は…彼女を一生大事にして、勝手に幸せになれ」


 イダから信じられない一言が聞こえた。8年も復讐しようとしていた、殺そうとしていた相手にエールを送った。久保の彼女は手で顔を押さえている。その指の隙間から涙が溢れていた。


「……はい。す、す、すみませんでした。黒瀬さん、鮎川さんっ!!!貴方の大切な…!!!」

と久保ヒカルが言いかけたところでイダは久保の胸ぐらから手を離し店を出て行った。


 今回ばかりは黒瀬さんも鮎川を追って店を後にした。


「久保さん…立ってください」と私は久保さんの肩をさすった。


「あぁはっ…僕…僕が…僕なんかが生きてて良いのかなぁ?」


「良いんだよ。ヒカル。私と一緒に生きるんだよ」と久保の彼女は言った。


「そうですよ久保さん。だって鮎川に“幸せになれ”って言われたんだから死ぬことはもう許されませんよ」


久保の顔はぐちゃぐちゃになった。


そして「うわぁぁぁぁぁあ!!!!」と久保は咆哮した。喜びの叫びか、悲しみの叫びか、苦しみの叫びかは分からない。それでも生者の叫びであることは確かだった。


ーーーーーーーーーーーーーーー


「盗聴してたでしょ」

 店を出た後、店近くの公園で2人と合流した。東京の2月はとても暖かい。雪がないから冬という季節をつい忘れてしまう。


「あれバレてました?」と黒瀬さんは頭をかいた。


「普通あんなタイミングよく入って来ませんよ」


「あはははは」

 黒瀬さんの目は真っ赤に腫れている。泣いたんだな、さっき。相変わらず可愛いやつ。


「全くもう…」と私は頬を膨らませた。


「まぁでも良かったです」


「んーまぁそうですね」と私は黒瀬さんと顔を見合わせて笑った。


そこにイダが間に入り私の手を急に引っ張った。


「はいはい。これから私と桜はデートだから倫太郎はお帰りくださーい」


「ちょ、ちょっとイダ!!」


「鮎川!それはおかしいだろ!俺のこと昼間っから呼び出しといて!!」


「はぁーあ。じゃあ荷物持ちとしてなら同行許そう。な、桜!」


「いやいや!ちょっと!待ってくださいよー!」


 暖かい空気の中に時折冷たい風が吹く2月後半の東京。その風に私とイダの白い頬はピンクに染まる。


 私はイダと手を繋いで街の小さな公園を抜け出した。


 この気持ちは恋なのか、愛なのか、なんなのか、まだ分からない。それでも私は今この人と一緒に生きていたい。その気持ちだけで充分だ。




何もかも満たされている今。それでもね、それでも我儘な私は会いたいって思っちゃうんだ。



藤田に。

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