第55話 鮎川と冬梅①

 目が覚めたら病院のベッドの上だった。


 なんだか視界が濁っている。

 どれくらい私は目を開けていなかったんだろう。


 目を擦ろうと布団から手を取り出そうとしたが動かなかった。まさか手切断したの…?

私は不安な気持ちで視界が開かれるのを待った。


 そして少しずつピントが合ってきた。


 そこには短髪の男がいた。手が動かなかったのは男が私の手を握っていたからだ。


 誰だ…?黒瀬さんにしてはガタイがいい。


 そんなことを考えている間にピントがどんどん合っていく。


 あれ…これ?


「イダ…?」

 私が発した声に応えるように私の手は強く握り返された。


「冬梅…」

 その声は間違いなくイダ…いや、鮎川さんだった。イダの声は初めてすすきの で会った時の鮎川さんの時の声に戻っていた。


 そう。イダはいつも裏声で話していて、よくテレビで見るおねぇタレントの声に近かった。そして、たまに喉を壊してのど飴を隠れて食べているのを何度も見ていた。


 どうして急に声を元に戻したんだろう。髪もトレードマークのおかっぱから短髪になっている。


 分からないけどもう“イダ”は必要なくなったのかなと悲しい気持ちになった。



「髪切ったんだね」


「あぁ。変かな?」


「変じゃない。似合ってるよイダ。」


「良かった。」



 なんだか私は泣きそうになった。なんとなく終わりの予感がする。私とイダの何かが終わる。


「冬梅、小指くっついたぞ。だが手のひらを銃で撃たれたから手首より下は暫く動かすなよ」


「うん…」


「明後日でもう退院しても良いそうだ。」


「早いね。」


「まったくお前の傷の治りは化け物級だぞ全く」


「えへへ」


「あぁ後マシロのやつはすっかり元気になったから明日以降はアイツに面倒見てもらえ」


 マシロちゃん…良かった。でもマシロちゃんに面倒を見てもらうのは嫌だな…と少し思った。騒々しくなるに違いない。


 そんなことを考えて下を俯いていると、「りんご食うか?」と言ってイイダさんはタッパの蓋を開けた。りんごはうさぎさんの形になっている。


「食べたい〜!あーんして!」

私は口を大きく開けた。


「はいはい…ほら、あーん」


「あー…」としかけたところに、シャッとカーテンが開く音がした。それと同時に「うわぁっ!」という叫び声も。


 この声は黒瀬さんだ。黒瀬さんはイダの方を見て口をぱくぱくとさせている。


「あ、鮎川…!じゃなくてイイダさん…。いやでもその格好は鮎川…!え、あれ?あ、あ?」とパニックなっていた。


「倫太郎。ウチの冬梅が迷惑をかけたな。」


 倫太郎…あ、黒瀬さんの下の名前か。なんで下の名前で呼ぶの?前まで呼んでなかったじゃない…。


 黒瀬さんは少し黙ってイダの方を見た。なんとなく私と同じことを察したのだろう。




「いえ、お兄さんが育てただけありました。」


「そうか」と言ってイイダさんは…いや…鮎川さんはニヤリと笑った。


 俯く私の頬を鮎川さんはそっと撫でた。まるで子供の健気さを見守る親のように。


「倫太郎。席を外してくれ。」


「え、あ、はい。」


「それと、部屋に入ってこようとするやつを全力で止めろ。30分だ。」


「ええ!?、えっえぇ、まぁ、はい。」

 黒瀬さんも流石に今度はすぐには納得いかなかったようだ。だが義理の兄の言うことは素直に従った。


 何を企んでいるの?


 黒瀬さんが部屋から出ていき空白の時間が訪れた。お互い黙って見つめ合った。


 そして鮎川さんは椅子から立ち上がり私のベッドの中に入ってきた。


 病院のベッドは1人用だ。ミシシッっとベッドから音が鳴った。


 鮎川さんは腕を私の頭の下に置いた。つまり腕枕をしてくれた。


 そしてもう片方の手で私の腰を触り抱き寄せた。


 鮎川さんの体温が…私の体温が互いに共有される。


あぁ…こんなに一緒にいたのに…


あんなに…色々なことを教えてもらって、色々なことで喧嘩して、色々な日々を過ごしてきたのに…


私はこの人の温度を一度も知らなかったんだ。


 以前、イダから一方的に抱きしめてくれたことはあった。でも、今回のハグはその時のものとは違う。今回のハグはとても愛情のこもった、あの時藤田としたハグに似ていた。


 私は涙が溢れた。終わる。終わらされる。嫌だけど言葉が出ない。イダは鮎川さんに戻るんだ。もう必要無くなったんだ。


「冬梅…」と鮎川さんは困ったように笑った。




「さよならだ。」

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