第56話 鮎川と冬梅②

「さよならだ。冬梅」


イダは…いや、鮎川さんはそう言った。


「どこに行くの?」


「少しやることをやってから旅に出るよ。」


 ドクン、ドクンとイイダさんの胸の心音が聞こえてくる。


「冬梅が付けてくれた イダはもうお終りなんだ」


 あぁやっぱりー。分かっていてもいざ言葉にされて言われると胸が痛くなる。私の目からは大粒の涙が溢れ落ちる。


「どうして…?」


「お前が産んでくれたイダを綺麗に終わらせたいんだよ。」


「どういう意味?」


 鮎川さんは返事をせずただ私のことを見ていた。


「私は君に謝らなきゃいけない。」と鮎川さんは言った。鮎川さんの目にも涙が浮かんでいた。


「私は高校生の大事な君の時間を奪った。しかも美人局なんかさせて。」


「ど、どうして今更そんなこと?私別に嫌じゃなかった。イダに会う前には援交してたし。それに、あのお陰で私は…」この言葉を遮るように鮎川さんが


「私が君を美人局として育てたのは…」と言って鮎川さんの目にも涙がこぼれ落ちた。



「君のことを娘だと思わないようにするためだったんだ」



「娘と思わないように君が沢山傷つくようなことを勧めた。すまなかった」鮎川さんはそう言って声を上げて泣いた。


 私を娘だと思わないために、美人局にさせた…。初めて聞かされた事実だけど、でも別にそんなことで


「泣かないでよ」


 私はあなたに会って生きる希望をもらった。私と同じように性被害で苦しむ人のために、加害者を堕とすための戦う力をくれた。


 私は貴方のお陰で生きることができた。


 娘と思いたくないから…?。笑わせないでよ。


「鮎川さん…私は貴方のこと父親とも母親とも一度も思っていない。思ったことなんて一度もない。貴方は私の…」


「初恋の人だから」


 鮎川さんを目を丸くしながらコチラを見た。何度も瞬きをして。


 あぁ、ずっと言わないと決めていた、墓場まで持って行こうとした言葉が今放出されてしまった。


「それは全く気づかなかったな…」


「気づかせないようにしてたし、1年で恋は終わったよ。だって…」


「藤田に出会ったから…だろ?」と言って鮎川さんはニヤリと笑った。その表情は何度も見てきたイダの顔だった。


「うん」




「ねぇイダ。最後にお願いしてもいい?」


「できる範囲ならな」     


「…キスしたい」


 イダは少し黙って目を閉じて、そしてゆっくりと開けた。


「良いよ」とイダが言いかけた頃には、もう私はイダの唇に触れていた。


 目を閉じてるからイダがどんな表情をしてるのか分からない。困った顔しているのかな…?それとも案外楽しんでいるのかな…?


 まぁどっちでもいっか。


 私は今、イダと身体を寄せ合ってキスをしている。


 イダに対する気持ちはもう恋愛感情ではない。私はイダという1人の生物が大好きなのだ。私と対等にいつも向き合ってくれた。見下さず、1人の人間として私を見てくれた。それがどんなに幸せなことか。


 でも、この人に“好き”という気持ちを伝えるのに言葉は言い尽くした。もうキスという行為でしか伝えられない気がする。


 私は舌でイダの内唇をそっとなぞった。そしてゆっくりイダの口の中に入れていった。


 拒まれると思ったけどイダは私の舌に応えてくれた。


 イダは少し不器用で力強いが、それでも私に気遣うようにゆっくり舌を絡ませてくれた。温かくてフワフワする。胸がドキドキして、更に舌を…イダの温度を欲してしまう。


 私の腰に当てていたイダの右手は、気づいたら私の頬に触れていた。私がこぼす涙をイダはそっと拭き取っていたのだ。ゴツゴツしているけど、しなやかな不思議な手。


 ああ…たまらない。


「好きだよイダ」


「私も大好きだよ冬梅」


 私は眠りに落ちるまでイダとキスをした。それは一瞬のようにも永遠のようにも感じるものだった。


 まるで雨の日につく窓ガラスの水滴たちのように。いつかは、また透明な乾いたガラスに戻る。




ーーーーーーーーーーーーーーー



「冬梅さん。おはようございます」


 さっきと違って今度はスムーズに目が開いた。


「おはようございます。黒瀬さん。」


 黒瀬さんはお見舞い用の椅子に座って、三島由紀夫の仮面の告白を読んでいた。


「あ…」と私が言いかけたところを遮るように黒瀬さんが


「イイダさんなら、2時間程前に出て行きましたよ。」と言った。


「そうですか…」

あれから私2時間も寝ていたのか。病院の黄ばんだ床はオレンジの光に染まっていた。


「冬梅さん、あのイイダさんと…何していたんですか?」


「え、ただ昔話で盛り上がっていただけですよ。」


「そ、そうですか…」と言って黒瀬さんは『仮面の告白』を閉じた。


「どうしてですか?」


「いや部屋から鮎川が出た時…鮎川のやつ顔真っ赤にしてたから何かあったのかと思って」







「冬梅さん…あれ、冬梅さんもなんか顔赤くないですか?」


「…あ。」


「ん、どうしました?」


「…夕日のせいです。顔が赤いのは…」

 私はそう言って、黒瀬さんの方を見て微笑んだ。



 

 そして5日後、私は鮎川さんと最悪な形で再開することになる。



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