第44話 イダという名前
2月の日曜日の夕方、高校の宿題を適当に済ませテレビを見ながらぼーとしていた。
日曜日のうたた寝ほど気持ちのいいものはない。
私はテレビから流れる上沼恵美子の声を聞きながら眠りに落ちるのを待っていた。あ、寝る。頭ふわふわしてきた。寝れるー。その時だった。
玄関から鍵を差し回す音が聞こえた。目が一瞬にして覚めた。
誰かが帰ってきた。
いや鍵を持っているのは父親しかいない。1年ぶりに?。
心臓がきゅうと痛くなった。1年ぶりの父との再会で真っ先に思ったことは“今日父さんとやらなきゃいけないのか”という憂鬱だった。
毎日父さんとセックスしていた時は感覚を殺していたから逆に何とも思わなかった。痛みや苦しみが当たり前だったからだ。だけど少し時間が空くともうダメだ。痛みや苦しみが“当たり前”の枠から外れてしまった。それこそ、土日ダラダラ休んだ後の月曜日が辛いのと同じ感覚だ。いやちょっと違うか。
私は玄関まで走った。待つよりかは自分の目でしっかりと確かめたい。
いや、分かっている。家の鍵を持っているのは…。
「え…」
目の前にいたのは、あの男…?だった。
居酒屋で私に執拗に絡み、道の中でうずくまり、私が持ち帰り、一夜(未遂)を共にした男。
男は「ただいま」とぶっきらぼうな顔つきで一言そう言った。そして靴を脱ぎリビングに入ってコートを脱いだ。
「冬梅、紅茶飲みたいんだが」
「あ、え、はい。」
私は反射的に台所に行き、お湯を沸かした。お湯が沸くのを待っている間、私は今起きていることを改めて振り返った。
まずここはお前の帰ってくる場所にした覚えはない。何故、仕事帰りのサラリーマンみたいなテンションで私の家に帰ってくる。鍵…いつ合鍵作ったんだよ。
…いや、いや、そこじゃない。
((女になっている))
性別の見分け方法って髪と胸だと思う。髪が長ければ女の確率が高いし、胸が膨らんでいればほぼ女だ。そして私の目の前にいる男は髪と胸が女のそれになっている。何故。よく考えたら声も少し変わっている。オネエタレントような声になっている。
男のことを色々と考えていたら、すぐにお湯が沸いた。カップにティーパックをセットしお湯を注いだ。
男は食卓椅子に座り腕時計を触っている。私はテーブルに紅茶を置いた。
「どうぞ…」
「ありがとう」
頼むから自分から話して欲しい。聞き方が分からない。いや、別に聞きたくもないが。向こうも触れて欲しいのか、触れてほしくないのか、分からない。
男は紅茶を一口飲み「冬梅」と言った。私は返事はせず男の目だけ見返した。
「冬梅が付けてくれた名前みたいな人になりたいと思ったんだ」
「イダ…」と私は呟いた。そうだ。私がこの男に頼まれて名前をつけたのだ。そのことをすっかり忘れていた。
「イダ…っていい名前だね。」と男は微笑んだ。
「き、気に入ってくれてよかったよ。」
「私、冬梅が付けてくれた名前に相応しい人になるよ」と男は…イダは同じ言葉を繰り返した。
その目は新しく人生のやり甲斐を見つけたと言いたいような目だった。空っぽな目なのには変わりないが以前よりもどこか澄んでいた。
それからイダは当たり前のように私の家に住むようになり父の寝室で眠るようになった。といってもイダは夕方から朝にかけてどこか外に出ていたので、あまり顔を合わすことはなかった。
私はそのことに何も口出ししなかった。別にイダがいて困ることは特になかったからだ。いや、むしろ有り難かった。それは毎月“宿代”なるものが机の上に置かれるようになったからだ。母の遺産には手をつけたくない私にとってはイダを拒絶する理由がなかった。
ーーーーーーーーーーーー
「とまぁこんな感じで…」と私は一旦昔話に区切りをつけた。話してみると意外と長くて終わりが見えなかった。
まぁイイダさんの過去前編だけでも充分じゃないかな。
カラオケの部屋には窓が無いため、どれくらい時間が経ったのか全く分からなかった。
私は昔話が終わるまでオレンジジュースのグラスについた水滴を眺め続けていた。いちいち、黒瀬さんがどんな反応をするのか気にしたくなかったからだ。
私はどこか気まずい気持ちで黒瀬さんの顔をみる。黒瀬さんは悲しいような、安堵したような不思議な顔をしていた。
それもそうか。義理の兄がすすきのでJKに絡んだ挙句、女になったんだもん。
「すみません。長くなっちゃいそうなんで、あとは簡単に質問に答えていく感じで…」と私は言った。
黒瀬さんは右手で顎をさすりながら俯いた。そして立ち上がり部屋の電気を1番明るい設定にした。
「どうしたんですか?」と私は目をしょぼしょぼさせながら聞いた。急に明るくなったせいで目が痛い。視界の中心が黒くぼやけ何も見えない。
そしてようやく視界が開けてきた…と思ったらすぐ目の前に黒瀬さんの顔があった。
「うわぁ!!なんですか!もう!」
「本当だ。桜とおんなじだ。」と黒瀬さんは悲しそうに笑った。そして目から涙が溢れた。
この黒瀬さんが言った“桜”は私のことでは無く、黒瀬さんの姪っ子…イイダさんの娘のことだ。
私とイイダさんの娘である桜ちゃんは、瞼の皮膚が薄いという共通の体質を持っていた。そのことで私も桜ちゃんも瞬きする度に目の形が変わるのだ。
「鮎川は…いやイイダさんは君の目に惹かれたんだね」
「みたいですね」
「すみません。話すの疲れちゃって、どうしてイイダさんと美人局を始めたのかは話していませでしたね。」
「疲れているなら、無理に話そうとしなくて良いですよ。その…辛い話もありましたしね。」
「あぁ…父のことですか。お気遣いありがとうございます。」
聞き手の黒瀬さんもどこか疲れた様子だ。今日はここでお開きにする方が良さそうだ。
私はオレンジジュースを一気に飲んだ。あぁイダに会いたい。
「あ、じゃあ簡単な質問を一個だけ。」
「はい。」
「冬梅さんが付けた名前はイダなのに、どうしてイイダさんになったの?」
「あぁ…周りの人がイダよりもイイダさんの方が言いやすかったんですかね。気づいたらイイダさんって周りから呼ばれてイイダで固定されちゃいました。だから、あの人の本当の名前がイダって知っているのは私だけなんです」と私は舌を出した。
私が付けた私だけが知っているイダの名前。
「今日は早くイダさんのところに帰らなきゃですね。冬梅さん。」と黒瀬さんは笑った。
「はい!」と私も微笑み返し、黒瀬さんと解散した。
果たして私は黒瀬さんに弱さを見せることはできたのかな。弱さを見せるって、時間もかかるし、疲れるし、相手にも気遣うし大変なんだな。
そんなことを考えながら、私は走って地下に入り、丸の内線に向かった。途中ローソンに寄って水を1本買った。ずっと喋っていたから喉がカラカラだ。
走ってイダのいる家に向かった。会いたい。イダに。ナベシマに付けられた心の傷を癒すことは出来ないけど、側にいることなら出来る。
鍵を開け部屋に入った。イダは扉を閉め寝室に引きこもっている。
私はドアの前で息を軽く吐き、部屋に入った。イダはベッドに仰向けになって手を組み、ぼーと天井を見ていた。
それはまるで棺に入った故人のようだった。あまりの美しさに私は、そんなイダを見つめてしまった。
「イダ…」と私は小さな声で言って、ベッドに近づいた。イダはこちらを一切見ない。私のことを認識していないのか。
そのまま私はイダの上を跨いだ。立ち位置は変わっているけど、いつかのあの日のようだ。そしてようやくイダは私のことを認識した。
「冬梅…どうしたの?」
私はイダを見下ろし、ニヤリと聞いた
「私が付けた“イダ”に相応しい人になれた?」
イダの空っぽな目の焦点がどんどん私に合っていった。
「なれてない…」とイダはポツリと言った。
「じゃあ鮎川さんに戻るの?」と聞いた瞬間、イダの身体に力が入った。太もも越しでイダの腹筋が硬くなるのが伝わった。
私は両手をイダの顔の横に置き、顔を近づけた。あの時と同じように、何度も何度も私はイダの目の前で瞬きをした。
「ならなきゃダメでしょう?」と言って、私は自分の唇をそっとイダの唇にくっ付けた。
イダはしばらく私の方を見つめ、最終的に吹き出した。
「このクソ美人局め」と言って私の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「貴方が育てたんです」と私は舌を突き出した。
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15歳、私は1人の男と出会い、未遂の1夜を過ごした。そして朝になり、男は私に名前をつけるよう頼んできた。
「じゃあイダ!」
「イダ…?」
「そう。じゃあ私学校行くから。」
「待って!理由は何?」
「理由は、アダムとイブから一文字ずつ取ったの。貴方はなんだか男とかじゃなくて人間って感じがしたから。なんだろ、性別を忘れた人間みたいな」
「気に入った」
そして男は2ヶ月後、女になって帰ってきた。
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