第32話 菜摘未の思惑

 境田は菜摘未に、日本酒百本を景品付き限定販売に、小谷も乗り気だとメールを送ると、直ぐに会いたいと返信を寄越した。今までにない素早い反応に、これは恋じゃない商売だと、思いながらも境田の心は飛び上がった。

 実際メールの送受信して一時間後には、龍馬通り商店街の喫茶店に、二人は顔を合わせていた。

 菜摘未が穏やかな表情で迎えてくれたのは、境田には珍しく前代未聞だ。いつも喧嘩腰とは行かないが、顔がほぐれるのに時間を要した。入って来るなり笑顔で迎えられると、お尻までこそばくなる。しかもどうだったと、優しく確認を求められれば、気持ちは天界を彷徨さまよってもおかしくない。

「何か嬉しそうですね」

 注文した珈琲に一口吐けて境田は抑え気味に切り出した。

「あの人商売っ気がないのよ、だから御用聞きみたいなことしかやってないのに賛成するなんてと思ってもいなかったからよ」

 そうか、それで境田はピンと来た。小谷さんは、どうやらこの前の船着き場で会った香奈子さんに会えるのが、最大の理由だと理解した。それと、目の前の菜摘未さんとどうリンクするのか、恋のライバル意識なのか? なら俺の出番はあるのだろうか。此処はもう少し恋の手ほどきをしてくれた、小谷さんの真意を確かめないと、この恋の成就は望めない。その前に二人の関係も、此の機嫌の良さにつけ込んで、聞ける所まで訊きたい願望が湧いた。

「どうして菜摘未さんは小谷さんに拘るんです」

「あの頃のままでいやに他人行儀な喋りかたね」

 此の人はいつ変わったのだろうか。いや、そんなことはない、いつ急変するか解らない。

「今は煩わされないようにしてますから」

「なにッ、あたしがいつ煩わせたと言うのッ。まあそれは置いといて」

 ヤレヤレいつもの彼女の片鱗が、出てるかと思った瞬間に引っ込められた。

「そんなことを訊くために来もたんじゃないから、あの堅物な小谷さんがどうして賛成したのかと思って」

 ハッキリと承諾したわけではない。ただ、いい感触を掴んだだけだ。彼女の出方を知りたい。

「それで十和瀬酒造の方はどうなんです」

「どうって?」

 ウッ、何だこれは。何の調略もやってないのか? まさか。

「会社には話したんでしょう、千夏さんは何て言ってました」

うちについてよく知らないあなたが、何でお義姉さんの事を訊くの?」

「小谷さんに依ると此の話は千夏さんが適任と言われました。彼女さえ了解すれば会長や社長を説得しやすいって」

 そうなの? とあたしは無視されたのか、と意外な顔をされた。

「それってあたしではダメってことかしら」

「その辺の会社の内部事情は知りませんから何ともはや……」

「それもそうね此の半年間は全くご無沙汰でしたもんね。それ以前もそうだけれど」

「あの〜、それなんですが」

 そのあいだはずっと菜摘未さんは会社のことしか頭にないのかと気になった。

「僕のことは眼中にないんですね」

「今は会社のことしか頭から離れないのは仕方ないでしょう」

 と彼女は当然と思われる卑屈な笑いを噛み殺すように言った。

 少しトーンを抑えてくれたのが救いだ。それも俺が今暴走されたら困るからだろう。しかし会社のためと言っておきながら、全く根回ししていないのはどう言うわけだ。阿修羅に戻されても訊くべきだ。

「千夏さんは何て言ってました」

「まだ話してないのよ」

 矢張りそうか。躊躇ためらいもなくもう一押しした。

「まだ未知数なのにどうして俺から小谷さんに頼むんですか」

「まだ試行段階だから先ずは販売先が了解していればあたしとしてはまとめやすいでしょう」

「でもこれは向こうの提案でなくこちらからの注文でしょう」

「今わね」 

 しかしまだ冷静さを保っているのは、本当に十和瀬酒造の事を考えているのか? もうなりふり構わず追求するまでだ。それでぐらつけば、今なら半年の冷却期間の鬱憤うっぷんを晴らせて、恋も今より冷めぬままで、彼女の気持ちに割り込めるだろう。

「じゃあこれから店に戻って千夏さんに話しましょう」

 この予定外の境田の行動に彼女はたじろいだ。こうなればどこまでも彼女が音を上げるまで食らい付く。

「ちょっと待って、なにもそう慌てなくても。まだ景品の見積もりが出てないのよ」

「エッ! まだですか」

「だってまだやるかどうか決まってないでしょう」

「今は景品の仕入れ値段が大きく左右されるのに、商談をするのはそれからでしょう。だから小谷さんは色よい返事をしても上層部にはまだ話してないんですよ」

「エッ! じゃあ此の話は小谷さんで止まっているの?」

 当然と言わんばかりに、境田はもっと煮詰めてから話すべきだと言い寄ると、明らかに菜摘未は戸惑っている。

「じゃあどうして菜摘未さんは僕に頼まずに直接小谷さんに相談しないのです」

 それは、と彼女は返事を濁らせた。おそらく彼がこんなに話を進めるとは思わず、菜摘未にすれば境田は、あくまでも小谷との繋ぎ役に徹すると予想していた。が全く無関係な境田の仲介で、商談が大まかでも動き出すとは予想していなかった。

「たまたま思い立った時にあなたが来たからよ」

 嘘だ。誤魔化している。矢張りこれは小谷の気を惹くためのおとり作戦だ。

「第一にどうして今まで会社にはほとんど関わらなかった菜摘未さんが急に僕の顔を見て直接関わるんですか」

 こうなれば単刀直入に切り込むしかない。 

「うるさい! あんたには関係ないでしょう」

 これには驚いた。今、否定された彼が、今は大事な役割を任されていたからだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る