第40話 香奈子を誘う
香奈子と会うのはいつもあのスナック『利き酒』の二階だ。そこを仕事場にして天王町近くに在る奥山工房から依頼を受けて、預かった白生地の反物に頼まれた草稿を見本にして素描き友禅を施している。出来あがった反物は集配の人に渡して、月末に
約束は取り付けたが、果たして香奈子さんが時間どおりに指定した四条河原町に姿を現してくれるか。間違いないと確信を持って誘ったが一抹の不安が拭いきれない。すっぽかされはしないが、急用でまた日を改めるとメールが来れば、翌日の得意先回りはドタキャンが気になり受注を他の人に頼むか、それとも真意を確かめに寄るか。この辺になると心臓は破裂寸前だろう。現に今も待ち合わせ時刻が迫ると、胸の高まりは尋常じゃない。出会って半年で最初のデートとは、十和瀬に云わすと遅すぎと言われた。なんせ約束を付ける前に休みの都合が取りにくいのが厄介だ。普通なら頃合いを見て、次の日曜はお暇? と聞けるが、彼女の場合は休みが有ってないようなものだ。相手がゾッコンなら別だが、この場合は当然それに見合うだけの、気持ちが伴わないと中々返事に困るだろう。
時計が約束の時間に近付いてふと顔を上げると、四条大橋を渡り終える人の群れの中に彼女を発見した。仕事でほぼ二、三日おきに会ってはいるが、これ程の大衆の面前で彼女を見たのは初めてだ。それだけに余計に新鮮に映った。次第に近付くと、彼女の表情にも笑顔が読み取れて、いつもの店の二階で会う表情に変わりはないが、いつもより気持ちが高揚した。
「お待たせ」
「京阪電車か」
「そう、あなたはバス?」
どこへ行きましょうか、と云う彼女の言葉を聞きながら、小谷はもう歩き出すと彼女も付いて来た。
「こないだまで境田と、ああ、此の前に龍馬像の船着き場で会った人」
「知ってるわ、その人どうしたの?」
菜摘未の使い走りをさせられてしまって今は往生している。
「あの人、彼女の、何が問題なの」
こうして香奈子さんと親密になれば境田は何も言えないからいいか。
二人は休日で人通りの多い河原町通りを北へ向かって歩く。香奈子にしてみれば日曜は混雑するのが目に見えているだけに、独りの場合はほとんど来ない。それだけに今日の混み具合にはうんざりしている。
「どこへ行こう?」
人混みに歩き馴れない香奈子に気付いて、やっと小谷は人混みの
「鴨川にはユリカモメが乱舞していたわよ」
「じゃあ、いつもバンクズを投げ与えている、あのおばさんが居たのか」
「あらそうなの、あのおばさんは有名なの?」
「十和瀬の話だとそうらしい」
此の辺りまで歩くと、さっきまでの香奈子さんを待つ不安が、一気に消し飛んで、境田に盛んに進展をアピールされた肩の荷がやっと下りた。彼女ともっと親密度を増すためにはどこへ行けば良いか考える。彼女は着物に関心があるが、絵その物が好きで着物の柄になる画を描いていた。しかし彼女が今まで勧めてくれたのは文学小説ばかりだ。しかし本屋さんか図書館では、彼女とゆっくりとお話が出来ない。そうだ、十和瀬に紹介されて最初に伺った時に、彼女は音楽を聴きながら、反物に素描き友禅をやっていた。
「最初の頃はドン・マクリーンの『アメリカン・パイ』を聴いていましたね」
「良く憶えてるわね」
と嬉しそうに返事をされて、うろ覚えなだけに当たりー、と胸が弾んだ。あの時はそれで暫く話が進んだ。調子がいいのか筆運びまでが軽くなっていた。
あの時は香奈子さんは仕事の真最中で、それ以上は聞けないし、彼女も絵筆を持つ手を止める訳にもいかずに結局、顔合わせの意味でそれ以上の説明を避けた。代わりに一冊の文庫本を読んでみてと渡されて帰った。それで借りた本に夢中になり、ドン・マクリーンのことなどスッカリ忘れてしまった。
「あれは確か英語の歌でしたね」
これには素早く反応をされて、もう河原町通りの人混みの中を歩くのが気にならなくなった。
「そう、ニューヨーク出身のソングライター。あの人のアルバムの中で一番綺麗な曲が『ヴィンセント』と云う曲なの。あれはヴィンセント・ファン・ゴッホの事を歌った曲なの」
「ゴッホ? ああ、あの南仏でゴーギャンと別れてピストル自殺したあの画家ですか」
「知ってるの?」
「それぐらいで、彼の絵はあんまり知らないんです」
あら、そうなの。と意外な顔をされて、残念そうな表情をした。さらに彼女が眉間に眉を寄せると「どんな絵なんですか?」と彼は慌てて訊ねた。
そうねー、とまた考え込む処を見ると、表現方法に苦労している。
「岡崎の美術館に行ってみない ?」
「そこに有るんですか」
「特別コーナーで本物じゃないけれど、精巧な模写が何点か今展示しているのよ」
どうやら彼女は前に見たが、感動はいまいちだけど生き方に
「細かい筆のタッチまでは無理だけれど、彼の生き様みたいなものぐらいは説明出来るから……」
じゃあ行きましょう、と香奈子さんはスッカリ乗り気になっている。短い距離だがバスに乗り平安神宮の大鳥居の前で降りた。バス停から数歩で美術館だ。
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