第41話 香奈子の話

 此処は河原町のように当てもなくウィンドショッピングを楽しむ人の群れはない。動機はどうあれ純粋に美術鑑賞と謂う高尚な目的を持つ人々だ。二人は直ぐに館内を巡った。館内ではターナーの絵画が展示されてる。香奈子には馴染みのある画家だが、絵にはそれほど深い洞察力のない小谷には、次々と眼に飛び込んでくるターナーと謂う画家の絵には感銘した。中でも輸送船の難破は、荒れ狂う嵐の中を難破した船から辛うじて脱出した小舟が大波に呑まれようとする描写は凄かった。特にあの凄まじいまでの襲い来る波の描写には見る方もそうだが、描く方は真面な神経では持った絵筆をここまで丹念には動かせない。此の集中した神経の持続力には驚かされた。

「よくこんな絵が描けるね」

 これをひと言に集約した小谷の深い洞察力には、香奈子も認めて賛同してくれた。

「此の人は自然に対する捉え方が違うのよ。写実的に描いているけれど殆どの風景画は自然に対する美的感覚が穏やかでなく、難解な自然への無限の挑戦って謂うものが感じられるのよね」

 確かにこの絵以外は、もやで霞んだ中に朧気に風景が浮かんでいる絵が多かった。

「これじゃあどんな風景か想像するしかないけれど、却ってその方が勝手に自然の躍動感を沸き立たせて多くの刺激を与えているんじゃないのか」

 完全な抽象画になればもう感覚は麻痺して皆無になるが、ターナーの絵はそこから別な不思議な自然物を想像する手助けを我々の脳に呼び起こしている。これには普段から絵筆を握っている香奈子にすれば、良い発想と快く受け止めた。 

「御用聞きにしとくには勿体ないわね。無から有に何かを造る仕事をすれば」

 と彼女は頬を緩めて瞳を輝かせて小谷の心の奥底に忍び込ませた。香奈子は愈々いよいよ別コーナーで集客をもくろむように特設したゴッホの実寸で作られた模写を見に行く。

 今までのターナーとは全く違う静寂な雰囲気の中に躍動感を秘めて迫ってきた。

「同じ画材なのにこれほどの印象の違い、それは描く人の魂の違いから来ると作品を観てまざまざと見せつけられてしまった」

 これには香奈子もしてやったりと満足そうな表情だが、瞳の輝きだけはさっきとは少し違った。

「さっきここへ来る前に話したドン・マクリーンだけど……」

 彼のアルバム「アメリカン・パイ」に収録された「ヴィンセント(スタリースタリーナイト)星降る夜」だが、この絵には「星月夜」と書かれていた。この絵は一本の杉が夜空と町並みに突き刺すように描かれ、そのほとんどがブルーで塗り込められて、そこにレモンイエローで渦巻く球体が空一面にある。

「何か目まいを起こしそうな絵ですね」

 これには香奈子も、そうねと少し微笑んだが、どことなくぎこちない笑いにもう一度この絵と向き直った。

「此の絵はゴッホ自身が自分の耳を切った後に療養所の窓から見た風景を彼の目で捉えたものなの」

 じっと見詰める小谷の横で香奈子が解説した。

「ドン・マクリーンが作曲した『ヴィンセント』と云う歌にはこの絵を掲げているの。ゴッホに捧げる鎮魂歌と云えるんじゃないの」

 と更に付け加えられた。

「手前の町と教会はブルー系で描いても画面の上三分の二の空には夜空の星なのにイエローレモン色で、まるで昼間のように明るく照らすように散りばめている。暗い夜空に光を求めているのかなあ」

 ポツリと呟いた小谷を見て香奈子は「吸い込まれたらダメよ」と耳元で囁いている。後で訊けば此の時のあなたの顔には死相が漂って、慌てて止めたのだと聞かされた。あの渦を見詰めていたら吸い込まれそうになったと、後で告白すれば。なーんだ、そんなことだったの、とがっかりさせたのを憶えている。

「耳を切ったのはゴーギャンと仲違なかたがえしたのが切っ掛けだともっぱらの噂だったけど」

 どこで知ったのか知らないが、単なる噂だと香奈子は自棄に強調した。

「それよりも、そこまでして自分を戒めようとする切り詰めた精神の持ち主でないとあんな絵が描けない、とすればあたしは失格かしら」

「でも此の絵はそれほど深い洞察力を必要としないんじゃない」

 と小谷が次の作品に視線を移した。今度はさっきと変わってブルー系で塗り込められた絵と違って、明るい配色が目立つ風景画だ。南仏の強い陽射しを浴びる麦畑が横一面に長閑のどかに広がっていた。だが比率は少ないが相変わらず空は濃いネービーしょくだ。良く見ると黒い鳥が一列に飛んでいた。

「何だこれは?」 

「鴉よ。カラスの群れが画面横に舞っているのよ」

 なるほど、群青の空からイエローレモン色の麦畑に来ている。

「何で鴉なんだ」

 普通は画家が落ち込んだ時なら、勇猛な鷹とか鷲、心の快復を願って鳩とか身近に憩いを与えてくれそうな鳥を描くのにどうして鴉なんだ。

「死を予感したのか」

「確かに以前は、死の二週間前に描かれたと思われてたけれど、色々と研究した結果それはこっちの絵らしいの」

 香奈子が示した絵は『ドービニーの庭』と書かれていた。矢張り横長の絵に今度は淡い緑を主体に使われブルーも薄く黄緑きみどりが混ざって、緑の屋根に白い壁の家と前庭には草花と緑の森で全体として穏やかな風景だ。

「これが絶筆された作品なの」

「此の前後の作品の脈絡を見ると、何か目まいを感じてわけ分からんなあー」

「小さい時から見ていると、絵心は無いけど、菜摘未ちゃんはこんな感じの人なの」

「ハア?」

「だから境田さんは苦労するわよ。テオに成り切らないと」

 訊くとテオはゴッホの弟で、画商として兄を経済面で支えた人らしい。


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