第42話 香奈子の核心
小谷はデートに誘ったが、美術館に来るとは予想外だ。だいたい日曜に来るのは年配者が多くて、若いカップルは少なく、此の二人は目立った。しかし鑑賞者には、はた迷惑にはならない程度に激論していた。
此処で香奈子が持ち出した境田だが。彼の置かれている立場も述べたが、あくまでもそれは副産物で有って、本命は彼女の気持ちにどこまでも迫れるか。これでは香奈子の策略の核心が何処にあるのか不透明になって、少しばかり焦り出した。
「境田さんへの忠告もいいんですが、具体的には菜摘未の何を指摘してやればいいのか随分曖昧なんですよね」
奇妙な香奈子の菜摘未に対する呪文を脳裏に焼き付けると、大概のことでは剥がしようがない。
「あら、そうかしら」
元々は人の心は曖昧で、いつどう転ぶか分かったもんではない。人間の持つ防衛本能に照らし合わせれば、その主張に意義は挟まないが余りには適格性に欠ける。
「それを紐解くのが菜摘未本人の行動と言論でしょう」
それを香奈子さんはドン・マクリーンの音楽とゴッホの絵を取り上げて、その共通性を小谷の視聴覚に訴えている。彼女を何とかしてもらわない、とあたしは心苦しくてならない、と的確に応える必要性に香奈子は迫ってくる。
「それで境田さんに、ちゃんと説明して欲しいの。あなたが菜摘未さんをいとましく思わなくて、素直に見ていられるようになって欲しいの。小谷さんもあの絵を見て、心に生じたものを自分の言葉で語ったように、菜摘未さんにも語らせてあげて欲しい、なんせ妹なのよ」
果たして彼女に受け入れる余地はあるのか。頑強に心を閉ざして思いを僅かでも語る菜摘未を今まで見たことがない。それは兄である十和瀬にも閉ざしたままなのだ。それなのに菜摘未は香奈子さんには裏表無く接しているようだ。そんな妹の思いを十和瀬はなぜぶち壊そうとするんだ。全ては菜摘未の為だと慈善家ぶっているが、十和瀬の奥底にそんな博愛精神が有るわけがないだけにあいつの魂胆が解らない。
実家で会った最近の十和瀬は、店の奥に有る暗い酒蔵で、もう直ぐ仕込みの終わる酒樽と首っ引きだった。そんなことは杜氏の山西さんに任せればいい、お前に何が出来る。それより妹の菜摘未の為にもっとやることはないのか。元を云えばお前が蒔いた種だろう。何を云っても十和瀬は腕組みをしたまま、発酵の進むタンクを眺めていた。そこで思い切って十和瀬に禁句を打っ付けた。
ーーなぜ香奈子さんを俺に紹介する気になったんだ。
十和瀬はやっと腕組みを解いてまざまざと、どこが気に入らないんだと小谷を見た。
ーー全ては菜摘未の為、あいつを真っ当な人間にしたいだけだ。これはお前の為でも有るんだ。
遠回しに解らない事を云う男だ。直接、菜摘未に意見しろと言いたい。
ーーどこが真っ当ではないと決めつけているんだ。
ーーあいつは境田を愛していない。
十和瀬が言うには。境田が夢中になればなるほど、妹は何処かのお姫様みたいに舞い上がる。その対象は境田でなく自分の自尊心の為に自らを高揚させている。お前から嫉妬心を導かせるためなんだ。これには舞い上がっているのは十和瀬、お前だと言いたい。
ーーなぜ愛してないと判る。
本人に直接、
ーーお前が俺を家に招いても、菜摘未はいつも遠くで見詰めるだけだ。
ーーそれは中学生の菜摘未だ。俺は菜摘未が産声を上げた時から見ている。
たいした自信だなあ。だが一体十和瀬は菜摘未の何を見てきたと云えるんだ。
ーーそれでも心の中は見えないだろう。
ーーそれが不思議と一目瞭然に菜摘未だけは見えてくる。
ーー十和瀬、お前は間違っている。希実世さんの素顔を見ないでどうして菜摘未の素顔が見えるんだ。
ーーそこが愛の不可解なところだ。
ーー誤魔化すな、希実世さんから逃げているに過ぎないのに。
それは十和瀬の勝手な屁理屈だろう。
ーー菜摘未は妹だ。あいつの間違いは俺の間違いに直結するんだ。希実世への
実家の酒蔵で会ったあの時の十和瀬は悲痛な顔を浮かべていた。十和瀬は菜摘未を見誤って自分の良心の叫びを聞き取った貌だ。
「香奈子さんは十和瀬幸弘をどう捉えてるんです」
「幸弘さんがどうかしたの?」
十和瀬は仕事を小谷に代わると同時にあのスナックへ案内した。あくまでもそれは自分が担当する取引先として。だが行ってみると十和瀬は貴方を紹介した。
「これでは十和瀬の胸の内をどう読み取れと云うんです」
美術鑑賞を終えた二人は、館内一階に常設された喫茶室のテーブル席で珈琲を飲んでいた。そこは腰の高さで統一された観葉植物で囲まれた落ち着いた場所だ。その
「幸弘さんは妹の見極めを暗に促すためでしょう」
「それは境田さんに想いを振り向けるためですか」
「小谷さんは一度も真面に菜摘未さんと向かい合ったことはないんですか」
一度もないと云い切った。十和瀬との付き合いで生じた隙間を埋めていただけだと。
「それに依って香奈子さんの僕に対する思いが変わるんですか」
それはありませんとキッパリ言い切ってくれた。これには感謝して、どうすればいいか方向性が確実に掴めた。
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