第44話 菜摘未の癖
いつもの得意先回りで小谷は十和瀬酒造へ立ち寄った。受付のおばさんは相変わらず暇な年末の店番に辟易している。伝票の整理に追われている千夏さんに奥のもろみの具合を聞くと順調だ。念のために菜摘未の提案を聞くと、肝心の菜摘未が今日は休みだった。十和瀬は今日も酒蔵で発酵タンクと睨めっこして一番暇なようだ。ひょっとしてまた希実世さんと揉めているのかも知れない。最近の十和瀬は家庭での煩わしさを酒蔵に逃避している。
「十和瀬、どうした。あれからまた希実世さんとひと悶着起こしたのか」
「いいや、お前のお陰で良く喋るようになって円満だ」
にやけた顔でそれ以上は聴く必要がなかった
「じゃあどうしてこんな所で瞑想に耽ってるんだ」
「妹がなあ、最近は塞ぎ込んでどうにもならん」
「千夏さんに聴いても似たような事を云ってる。いっそあの提案に乗ってやれば気が紛れるんじゃないのか」
「バカ云うなあ、いつもの気まぐれで会社の経営を悪化させるわけにはいかない」
「行くか行かないかはやってみないと判らんだろう」
「あの切り子細工のコップの見積もりを見て、みんな
千夏さんも呆れた金額だと報せた。それで菜摘未は八方塞がりで珍しく日曜に香奈子の店に行ったと判った。それであのドン・マクリーンのCDを渡されたのか。
「今日は菜摘未はどうしてるんだ?」
「境田に会いに行った」
「平日だろう。境田も営業で走り回っているのに」
これには小谷も呆れたが、十和瀬には突っ込まれた。
「小谷、お前もなあ、営業中の境田の立ち寄りそうなファミリーレストランを見付けて長話してるそうやなあ」
「それは俺の店へ来られて、まずいと思ってそうしたまでだ」
「仕事中でも香奈子と店の二階で会ってるやろう」
十和瀬は此の酒蔵で伊達にボオーと立っている訳じゃないのか。
「そんな話、どっから仕入れるんや」
「此の二階で踏ん
「菜摘未か」
「ああ、最近、やけに事務を千夏に任せて出ずっぱりや」
「まさかと思うが相手は境田か?」
「他に誰が居る」
菜摘未が会うとすれば香奈子さんだが、それはこの前の日曜に何か言われた。今日は『利き酒』は巡回コースには入ってないが、行ってみる必要がある。
「此の前の日曜と云えばお前、香奈子と初デートだったなあ。そんな日に香奈子は久し振りに来た妹に一体何を話したかお前知ってるのか?」
「来たのは境田から訊いたが詳しくは知らない」
不思議な情報網が構築されたもんだと呆れた。どうも菜摘未は小谷と香奈子を引き合わせた兄を余り恨んでないどころか色々と相談している。
「それで何しに境田に会いに行ったんだ」
「妹が男に会いに行けば他にどんな用が有るんだ」
「まあなあ、恋人どうしなら頷けるが、犬猿の仲とは云わないがどっちも波乱要因を抱えている相手だろう」
「憎い憎いも好きのうちって謂う事もあり得るだろう」
「あの二人に限ってそれは絶対にあり得ない」
「嫌にキッパリ言い切って、だが俺の目には狂いはない、と、思うが」
それでよくもまあ、希実世さんをものに出来たのは、妹のお陰じゃないのか。これには十和瀬もぐうの
小谷は直ぐに香奈子の店に行った。既に君枝さんは煙草を吹かしながら喫茶の開店準備をしていた。
「この前来たばっかりなのに。お酒がそんなに早く無くなるほど内は繁盛してないッ」
と嫌みを言われながらも香奈子さんを呼んでくれた。二階からどうぞと云われて上がった。階段の後ろから、君枝のごゆっくりと云う言葉が変に
全くこうも雰囲気の違う女二人を、会長の十和瀬鴈治郎はどうして選んだのか、
香奈子さんは今日はまた変わった柄を描いていた。
「そんな粋な柄の着物を着る人が居るんですか」
「奥山工房の社長には祇園で馴染みの人が居るのよ。その人にプレゼントするみたい」
「それを外注の香奈子さんがどうして描いてるんです」
「社長が言うには筆遣いが粋なあたしなら良い着物になるって云うのよ」
「香奈子さんの場合は粋と云うより、筆運びが厳格でいて俯瞰すると柳のように緩やかな曲線が優雅に見えて格調がある」
「柳が風に吹かれれば、それじゃあ傍に立っている人はまるで幽霊みたいじゃないの」
「そうじゃなくて、着物は矢張り腰を少し曲げた柳腰が粋に見えるでしょう」
「花街ならね。でもお茶会ではぶっ飛ばされそう」
「ぶっ飛ばされるのは柳腰で出たお尻ですか、それでは利休も草葉の陰で嘆いているでしょう」
そうかしらっと流し目をされた。その目に釘を刺すように菜摘未の来訪を訊ねた。流石に今度は目が据わって来た。菜摘未は仕事中の境田の所へ行ったと十和瀬に伺った。
「千夏さんに黙って、幸弘さんが追認したんですか……」
十和瀬が
「それで菜摘未は何しに来たのですか」
あの日は日曜日なのに、菜摘未さんは急に来て、留守と判り待ったようだ。来るんだったら連絡すればいいのに、まあそんな面倒くさいことはしない子だからしょうがないけど。
「何か気持ちが上ずっていたのよ」
そうでなければ菜摘未が来るはずもない。事の起こりは半年ぶりに境田が十和瀬酒造を訪ねた。それをけんもほろろに追い返した。どうしてそうしたのか今も解らないと彼女は嘆いていた。
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