第45話 菜摘未の癖2

 あの日を説明する前に先ずは、菜摘未を取り巻く環境を香奈子は整理した。

 小谷の場合は高校生になって十和瀬を知り、彼の家に出入りして妹の菜摘未を知った。十和瀬の兄は年が離れて余り会う機会が少なく、母親も余り顔を見せない。夜遅く帰ってくる父親に至っては、今の仕事を任されるまで全く小谷は会ってない。当然、十和瀬の家に行けば頻繁に顔を合わせるのは妹の菜摘未しかいない。 

 一方の香奈子の場合は、中学生の時から小学生の菜摘未と家は別々だが、姉妹として交流して良く知っている。こうして見ると菜摘未に関しては両親や兄よりよく知っているのは香奈子と十和瀬だろう。菜摘未の子供時分は兄の十和瀬と遊んだが、同性として親身になれたのは矢張り歳が一番近い香奈子だった。

 まず菜摘未はあたしの存在を知ってから、よく此の家に遊びに来た。言い換えれば十和瀬の家はそれだけ居づらい。それは造り酒屋として多くの人が出入りすれば、菜摘未としては寛げる空間が欲しい。その場合あたしの家の二階は、夜のスナックを開けるまでは静かで誰にも邪魔されないで済む。それと三つも離れていないお姉さんのあたしとは頼り甲斐が有るのでしょう。それで彼女が高校までは相談相手としてあたしの所に入り浸っていた。流石に大学生になると、あたしの所へ来る時間は遠のくけれど、来れば相談は受けていた。

「大学時代は余り来なかったのか。それじゃあ菜摘未が俺に関心を持ち出した頃だなあ」

 そう言えば結構その頃の菜摘未ちゃんは異性の品定めをしていた。それで最後まであなたが残ったけれど、その頃はまだあなたを知らなかったのよ。あなたの存在に強い関心を持ったのは、幸弘さんが頻繁に小谷祥吾と謂う男は、お前に合うから紹介してやると言われて下のお店に連れて来てからよ。

「その時の印象は?」

 と期待して身を乗り出しかけたが、眉を寄せて心の中に肘鉄を喰らわされた。でもその瞳は輝いてる。

「あなたが聴きに来たのは今は菜摘未さんの事でしょう」

 見事にお預けを食らってしまった。何処かの著名人は、恋愛の秘訣はらせて相手にいつまでも気を持たせるものだとのたまっていた。今の香奈子さんにそれを実行された。

 一段落付いたのか、それとも此処からはこんを詰めて掛からないといけないのか、喋りながらも描き続けていた香奈子さんは、もうすっかり仕事の手を止めている。洗った筆を手拭きで拭き取って並べた。

「何でもあのドン・マクリーンのCDを渡したそうですね」

 顔料が付いた筆は使わないときは直ぐに洗わないと筆先が硬くなる。これでゆっくり話が出来ると小谷の方から催促した。染料が所狭しと並び、反物が掛かった畳一畳半の此の場所から、彼女は居間として使っている座卓のある場所に移動した。

「仕事しながら話せるもんじゃないのよね」

 彼女は紅茶を淹れて差し出してくれた。

「あなたと別れて帰り着くと、下の喫茶店でお母さんが出してくれた珈琲を飲みながら一時間以上も待ったらしいの」

「家に帰ったら吃驚びっくりしただろう」

 それが香奈子はそうでもないらしい。最近は滅多に来ないが、以前は自分の家のように来ていた。お母さんも娘には違いないから、なにも云わずに家に上げていた。流石に大学生ぐらいに成ると少しは気兼ねした。けれど何の前触れもなく来るのは前と変わらない。

「まあ、そうだろうなあ。家族と謂っても、繋がってるのはお父さんだけだからなあ」

「その辺は全く気にしない子なんよね」

「俺が高校生の時は結構人見知りしていたのに、此処ではそうじゃないのか。それは君の人徳か」

「それほどでもないけど。それで話戻すけど。あの子は人に言えない時は十和瀬の家でなく内へ来るのよ」

 そんな具合に此の前の日曜の晩も、お母さんの話だといつものように転がり込んで来たけど、いつもよりしんみりしてた。それであたしが二階へ連れて来て、此処へ座るとシクシクと鼻水を出しながら泣き出した。

「へェ〜、絶対にあり得ないが、あの菜摘未がねぇ」

 丸い地球がどうしてひっくり返るんだと思えるほどたとえようがない。

「別に感心することはないでしょう。あたしの前ではあの子、たまに泣いたりするのよ」

「それって偶々たまたまじゃない、だって菜摘未の泣き顔なんて彼女はいつも阿修羅の如く立ちはだかっているのに……」

「でも以前は二人っきりで一緒に河原町に行った事あるんでしょう」

「十和瀬が言ったんか、まあ、流石にあの時は穏やかにとりすましていたが……」

 おそらく十和瀬がもっと愛想良くしろよと云ったのだろう。どっちにしても家に遊びに来るときは、大学に行くまではべそを掻いていた。

「俺や十和瀬にはおくびにも見せない一面を此処では出していたのか」

「まあ、おくびもなくは余計で、あの子の正しい評価だとは思わないけど、それほどの警戒心のない子なのにいつも張り詰めていることは確かよ」

「その子が一体何をしでかしたんだ」

「万引きでもしたような言い方だけど、そうじゃないのよ」

 菜摘未は夕方遅くに『利き酒』に駆け込んできた。勿論、日曜でカーテンが閉まり店の灯りは消してある。常連でもそこまでしないぐらい、激しく木枠のガラスドアを叩いた。慌ててお母さんがカーテン越しに菜摘未を認めて鍵を外すと、彼女は待ちきれずに勢いよくドアを押した。菜摘未はぶっ倒れそうな母を尻目に、あたしを呼んだ。留守だと判り、母に促されてテーブル席で待たされたのよ。



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