第46話 菜摘未の分析

 これには驚いた。菜摘未は元来短気な方である。気に入らなければ直ぐに横柄な態度を取る。それで学校でも彼女に同調する生徒は皆無だ。即ち孤立無援だが異性の目からすればこれが結構受けている。此のお高く止まっている女性と面と向かって交際を申し込むにも勇気が要る。先ずスンナリと受け入れてくれるのか。殆どの男子生徒は此の心の葛藤にぶち当たり、交際を申し込む気力を消耗してしまう。それを乗り越えた者だけが彼女に近付けた。そんな男どもに冷たい視線を送る菜摘未にとって、無視されることがどんな屈辱か、真面な人間には想像を絶した。その標的が小谷だ。この頃には菜摘未もある程度は大人の態度が出来て、小谷のすげない態度に業を煮やして、大学時代に最も自分に熱い視線を送った境田に標的を変えた。

「そんな菜摘未が慌てて飛び込んで来るなんて滅多にないなあ」

 この前代未聞の彼女の行動は小谷には奇妙に映った。

 母が珈琲をお代わりしたから一時間以上は下に居た。とにかくあたしが帰ると真っ先にまるで子供のように飛びついてきた。もう〜、いい歳した大人なのに、と内面は思っても、それを呑み込ませる特技を菜摘未は自分の経験から持っていた。母に後片付けを頼んで、とにかく二階のあたしの部屋に行った頃には落ち着いていつもの彼女に戻った。それでも尋常じゃない心の動揺は香奈子にも伝わった。

 ーーどうしたの? こんな時間に来るなんて珍しいわね。

 珍しいと云うより社会人になってからは母の店には寄りつかない。

 ーー大学時代に知り合った男に付け回されたのよ。

 ーー境田さんじゃないわよね。

 ーーあの人は紳士的で待ってと言われれば三年でも待ってくれるわよ。 

 ーーでも半年ぶりで来たのでしょう。

 ーー待ってとは言わなかったから……。

 なるほどそいう意味で紳士的なのか。

 ーーそれでそのストーカーはどうしたの?

 ーー持ってたハンドバッグを振り回したら、当たり所が悪くてぶっ飛んだのよ。そこへ丁度自転車が飛び出してきて、今度はハンドバッグ以上の衝撃で その男は怪我をしたらしいのよ。

 ーーらしいって、確認してないの?

 ーーもうその時は走り出して、振り向けば男は路上にうずくまってた。

 それで彼女は恐ろしく不安になり、あたしの家まで駆け込んで来た。なんせドアの鍵を開けると同時に、母には挨拶よりも先にドアを蹴破る勢いだ。

 おちつかせるためにあのドン・マクリーンのヴィンセントを聴かせたら、彼女はあの曲を凄く気に入って、CDをあげる時に、ある画家への鎮魂歌だと説明した。それから「あの曲を毎日聴いているのよね」

 ストーカー行為の男についてはあたしが話し込んで、男もそんなつもりじゃないとただ憧れていただけで、もうすっかり菜摘未には懲りて一筆書かせて穏便に計らった。でも菜摘未ちゃんはそうはいかないのよ。もうすっかり気分が動転して、何をしでかすか解らない不安定な精神状態だった。だから今はそっとしてあげてと香奈子に言われた。

「それじゃあ菜摘未はその男を訴えて、いちゃもん付けることはないのか」

「そんな心配よりその恐怖の反動があの男でなく、別な人達へ向けられるかも知れないから要注意なのよ」

 目の前に突然降って湧いた男より、長く降り積もった者への執着心の方が大きい。それであのストーカーには見向きもしなくてもう眼中にないのだ。それでも菜摘未のそんな状態が長く続くはずもなく更に加速すれば、彼女が受けた衝撃がそのまま十和瀬家を取りまく人々に災いとなって降り注ぐのに、そう時間は掛からないと香奈子は警告した。

「どうすればいいんだ」

 あのドン・マクリーンが鎮痛剤としてどれだけ効き目があるのか検証しなければならないが、香奈子には同性として踏み込むには限界がある。それには彼女の心の中に深く取り憑いた小谷さんが打って付けだが、それではあたしが困ると云って退けた。

 実際に菜摘未がどう動くか、遣り方を間違えれば、とんでもない行動を起こす。そこは境田さんには慎重にするように働き掛ける。

「境田の話だとあの鎮痛剤はまだ結構効き目があるのか、菜摘未は彼に会うのを今は拒みきれないでいるんだけど……」

「境田さんに話したのですか」

「いや、向こうから云って来たんだ」

「そう、それは良かった」

 ウッ? 何がいいのだろう? と思わず香奈子の瞳を真面に捉えた。彼女もウッと構えたが、その瞳にはかすかな笑顔が浮かんでいた。

「彼女はあなたでなく、境田さんにすがり付こうとしていると思ったからよ」

 それだけで菜摘未が彼を頼りにするとは到底思えない。何を根拠に香奈子さんは断定したのか気になる。

「あの曲だけで菜摘未に取りいたものが、そう簡単に剥がれるとは思えないんだけど」

「それもそうだけれど、でも、もう彼女は曖昧な行動は取らないと思うのよね」

 ウッと今度は胸が詰まった。小谷と菜摘未では、あの曲は受け止め方が違う。菜摘未がストーカーから受けた以上に、ハッキリした行動を起こす処を想像しただけで、背筋には冷たい物が走り、血液が心臓に激しく逆流して、遮断された頭に悪寒が走った。菜摘未を知りすぎている香奈子は、冷静に対応しているのに、表面上の付き合いに徹した小谷には穏やかでない。とにかく危機らしい危機に合わなかった菜摘未は、この事件に依って自制心が不安定な精神状態におちいった。これは十分に起爆剤になり得た。


 

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