第13話 香奈子の誘い

 今は反物の幅一杯に桜並木を描いている。総柄だから縫い目は気にしなくていい。先ず淡い鴇色ときいろを反物に描き、それに薄い紫がかった桃色から濃い臙脂色えんじいろまでが斑に細かく画かれていた。花々の境目や空白には白い練り胡粉を盛り上げるように塗り上げていた。長い反物と交差するように、横一杯に描かれた桜並木を支えるように、間隔を空けて桜の立木を描き込めば一つの柄が出来上がる。これを交互に向きを入れ替えて連続して反物の端から端まで画けば、満開の桜並木が続く総柄の着物が出来上がる。プリントと違うところは同じ桜並木だが、矢張り素描きだと微妙に色や筆遣いの違いが出て来る。だから同じ柄の連続でありながら、じっくり観察すると微妙に違う。付け下げと違ってメインとなる柄がないから、全体に目立たないように均等に同じ柄を続けて描き込む。これは単調になりがちだが、長い反物に描き終わった頃には、最初と最後で微妙な変化は有っても、大きく柄が崩れてはいけない。だからこれも矢張り時々は描き終わった柄を見ながら、大きく変わらないように修正しながら描いていた。

「これは同じ柄の繰り返しだから馴れれば楽でしょう」

「馴れればかえって逆に柄が大きく変わらないようにしないといけないから、気を抜けないのは付け下げと変わらないけれど、総柄の着物は合わせ目がないからそれだけは話しながらも画けるから楽だわね」

「なるほど。それで千夏さんは十和瀬家の反対を押し切って香奈子さんを披露宴に呼ぶ処が凄いですね」

「反対したのはあの先代の女将さん一人だけですから、でもちょっと目立ち過ぎちゃった」

 とベロッと舌を出した。あの歌も宴会のお披露目では、香奈子さんへの印象も悪くなかった。だがこれで君枝と古女将とは対立激化して幸弘の時は辞退させられた。

「それで十和瀬の披露宴の時には居なかったのか」

「だから幸弘お兄さんに、あなたのようなお友達が居たなんて知らなかった」

「それじゃあ、十和瀬の奥さんの希実世さんは会ったことはないの?」

「そうねー、披露宴には行ってないけれど新婚旅行から帰ってからお土産を持って幸弘さんと一緒にお店に挨拶に来られたから、その時に初めて会ったけれど……」

 ここではあの先代女将に愚痴を云って「実の家族なのに式も披露宴も反対するなんて酷い義母ね」とお店で母を相手に散々愚痴っていたそうだ。それからお店には何回か希実世さんは十和瀬家の愚痴を言いに来て、此処はていの良いけ口に成っているって母がぼやいていた。こんな時でも母の君枝は、浮き名を流しただけあって、大抵の苦情には動じない。それがどゃっちゅうねん、と心の中では相手の義母をあざ笑っていた。要するに真面に相手をしないだけだ。そんな接し方が希実世さんには受けたのか、それから来るようになったが、来ても幸弘さんといつも一緒だ。彼女がトイレに立った時に聞くと、彼女は高校までは小中一貫校のミッション系の学校を出て、大学で始めて共学の授業を受けて初めて恋した男が兄の幸弘だった。彼女は言いたい放題の性格だけど、意外と引っ込み思案な処もあってスナックへ呑みに行くのも、それが親戚の店でも一人ではまだ来にくいらしい。

「あっ、そうなの?」

「小谷さんも希実世さんとはそんなに会わないの?」

「十和瀬の披露宴で見たのが初めで、それに彼奴あいつはいつもアパートの手前で別れるから噂の範囲でしか知らないが。じゃあ彼女は高校までは聖書を愛読してたのか」

「そうでもないわよ。あの人は神様なんて糞食らえって酔った拍子に云ってそのままカウンターに額を合わせて酔い潰れて仕舞ったのよ」

 その時は幸弘さんから、実家に対する鬱憤を晴らしているだけだと聞かされた。

「へぇー、十和瀬の家を知るには此の店は貴重な情報源なのか」

「どうかしら、お母さんは店で聞いたことは口の堅い人にしか言わないわよ」

 そう言いながらも香奈子は、会長の鴈治郎についても喋ってくれた。いつもパリッとした身なりで祇園に良く呑みに来ていた。磊落な性格で奥さんはその反対に堅物な人らしい。

 これは口の堅い人限定よ、と云って喋り出した処をみると、小谷もその一人なのか。まあ、これから酒の仕入れで何度もお目に掛かる相手だ、知って損はない。それを見越したのか彼女も、小谷の売り上げをサポートしたいらしい。

 十和瀬鴈治郎は酒造業界の連綿をいつも誘って祇園に乗り込んでくる。そのお歴々方の肩書きは全て営業部の部長以上だ。つまり十和瀬酒造で造られた日本酒の売り込みが主体で、その片手間で君枝を口説いていた。浮気をなじる妻に対しては、彼奴あいつは祇園が業界への社交場だと、何度云っても理解しない処か、浮気の証拠を掴むのに奔走されてしまった。 

「でも、それが事実なんでしょう」

 小谷は語り部の香奈子に向かって抑揚のない言葉で告げた。彼女もそうねと半ば諦めに似た言葉で返したが、でも妻は浮気の調査も愛の一環だと言い張った。

 信頼が愛の全てだとは云わないが、大部分を占めていることは確かなのに、何が愛の一環と母は呆れていた。これには鴈治郎も、妻の身分にあぐらをかいているだけだ。だからそんな女房よりお前の方が心根が座っている、と褒められたのか、呆れられたのか解らないと母はぼやいていた。

「鴈治郎さんは此処の常連客だから、酒の仕入れも大事だけれど、下のお店に来ればこんな裏話も聞けるわよ」

 と香奈子自身も半ば古谷への期待を膨らませた。



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