第14話 夜の香奈子の店
今度の新しい仕事に役に立つと香奈子が店に誘ってくれた。誘いの真意はどうであれ、さっそく仕事帰りに店の営業時間内に初めて『利き酒』のドアを押した。まだ夕暮れの六時だが冬至を前にスッカリ闇に包まれた。店内にまだ客はいないが、昼間と夜とではこんなに趣が違うのか。昼間の御用聞きで来れば居酒屋かスナックか紛らわしいが、こうして昼間は明るすぎて気付かない仄かな灯りも、目に馴染んで来るとそれらしく見えるもんだ。その仄かな灯りに着物姿の香奈子が浮かんだ時はドキッとした。初めて見る香奈子の小紋の着物姿でも、全く新鮮に見えた。髪も後ろに引っ詰めでなく上手く纏め上げている。聞けば母の着こなしたお古だが全く斬新に映った。
陽の光が差し込む二階の反物越しに見る普通の彼女と、カウンター越しの淡い灯火の下で見る彼女は妖艶に見えた。それでも小首を傾げていらしゃいと陽気に語りかけられると一変にいつもの香奈子に戻った。席に座ると鴈治郎さんはいつも此の隣だと言われて、エッ!と思うまもなく勧められてしまった。
カウンター席の後ろには対面の二人掛けのテーブル席があり。カウンターが途切れた奥には四、五人が座れる席があった。此の時に入って来たアベックは二人掛けのテーブル席に座った。こんな風に伏見界隈の観光を終えたカップルが夕暮れ時に『利き酒』に立ち寄る。香奈子も心得たもので伏見巡りで、気に入った銘柄が分からなくても、建ち並ぶ酒造会社を聞けば、直ぐにお勧めの銘柄が解る。
着物でお客さんと遣り取りをする姿を見ながら、君枝さんは小谷の耳元で「此の店で着物を着たのは今日が初めてよ」
と聞かされた。
「店をあける時間に二階から下りて来たあの姿を見てびっくりしたけれど、あなたが来てこれで判ったわ。今日はあなた、あの子に誘われたでしょう」とまた囁くように言われて、思わず彼女に目を向けると、注文を取り次ぐ彼女も、小首を傾げてテーブル席から振り返り微笑んだ。
「お母さんと何話してたの」
と母に注文を伝えると小谷は聞かれた。意地悪そうに「初デビューか」と小谷が
「いつも二階で普段着のあたしばかり見ているから夜のお店に合わせてだけよッ」
意地悪そうにきつく言った。
「嘘ばっかり、いつも普段着でお店に出てるのよこの子は」
「もうー、お母さんたら意地悪ね」
ハイハイそうですよ、と母に言われて、注文のお酒を受け取るとテーブル席へ持って行った。
「あなた、しっかりしなさいよ。あの子ひと癖あるから」
「エッ!」
「でも大丈夫よ、今までの中では一番真面な振りをしているから」
「でも着物は今日が初めてでしょう」
「そうねー、七五三以来かしら」
「何が七五三なのよ」
香奈子に
「君の着物姿は七五三参り以来か?」
「そうでもないわよ。千夏さんの披露宴でも着たのにスッカリ
「可愛いだろうなあ」
「千夏さんの披露宴の時」
「
七五三参りは平安神宮に行ったけれど、履いた足袋がきつくて歩きにくかった。なのに母はサッサと歩くから。とにかく記念写真を撮ってもらいたかったみたい。みんな両親が居るのに、あたしだけお父さんが居なかった。多分今から想えば鴈治郎さんにあとでこっそり晴れ着写真を見せたかったのね。でも私はそう悲観しなかったけれど。
「でも菜摘未さんを紹介されたときはショックだった」
「そうか? 菜摘未に言わすとあの時はかなり気丈な子だと言っていたが」
「家を出るときに母から動揺しないように言い含められていたから表向きは気を張りとおしたけれど帰りはもーう気持ちがガタガタになってたのよぅ」
あとで菜摘未ちゃんが家に遊びに来て知ったけれど。なによ、会長の女は、あれだけの家族に包まれていながら、浮気だと不満たらたら述べてるから、あたしのお母さんの身にもなってよ、と菜摘未ちゃんと二人で不公平だと思った。だってあの時は鴈治郎が二人の女性を同等に愛したのに、此の差はなんなの。片や酒造会社の女将で三人も子供が居るのに、あたしの所は狭いアパートに一人で夜はお留守番。
「小学生と中学生のふたりがそう思ったのか」
「今から思うと笑えるけれどね。でもね菜摘未ちゃんも酷いと言ってた。今は亡き鴈治郎のお父さんの勧告で世間体が悪いのか、それとも沽券に関わるのか母にお店を持たせてくれた。菜摘未ちゃんは亡くなった祖父に一番可愛がられていたから彼女に言われると一番に
「なるほど、既に小学生にして策士か」
考えずに冗談で言ったが、眉を
「まさかそれは考え過ぎだけれどお父さんへの不満をあの頃はたらたらと述べてた」
「聞けば聞くほど今でも菜摘未もそんな所があると思いませんか」
「あの子は大丈夫、そんな狭い了見は持ち合わせていないと想うけれど……」
了見は狭くないが感情が不安定なのが気になる。
「それじゃあ此処へも呑みに来ますか?」
「ちょこちょこ来るわよ、それでもあの一家では鴈治郎さんに次いで二番目かしら」
「十和瀬夫婦より多いのか」
「あの夫婦は片寄ってるけれど菜摘未さんはまんべんなく来るわよ」
時間が経つと店も賑わって来た。いつ来るが解らない気紛れなカウンターの指定席は「オッ、今日は何の日だ」と突然に埋まった。
やって来たのは鴈治郎だ。彼は指定席に着くなり香奈子を眺め回した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます