第15話 鴈治郎の来店

 眼がやっと一点に定まると、おもむろに小紋にしては派手な柄だなあ、と先ずは着ている着物を批評した。こうなると同じ着物姿でも君枝は霞んでくる。

「いつも訪問着や付け下げ着物のような格式のある着物ばかり描いているのでこういう平凡な着物が新鮮に映るから気に入ってるの」

 と自慢げに鴈治郎に言って、そうでしょうと小谷に同意を求めた。此の店の常連客の鴈治郎には見慣れない男に、思わず不審な顔で「あんた誰や」と言葉を投げ掛けられた。十和瀬酒造会社会長の十和瀬鴈治郎さんですね、と訊ねられて益々凝り固まった。

「此の人誰や」

 と今度は香奈子に訊ねた。彼女はうふふと意味ありげな笑いを浮かべて、取引先の人とだけ答えたから、鴈治郎は頭に来たようだ。

「あんたはうちとこの商品を仕入れているのなら失礼な男やなあ」

 そう言いながらも顔は笑っている。これが本妻と妾に注いだ平等な笑顔なのかと暫く眺めた。

「ひょっとしてあんた小谷さん、千夏が最近うちの商品を仕入れる息子の幸弘に代わって仕入れている人っちゅうのはあんたか」

 いつまで見ているの、と、香奈子に呆れ顔をされて小谷は我に返った。

「すいません紹介が遅れました。その小谷です」

「なるほど。君か、ちょっと掴み処の無い男だと千夏から聞いてはいたが……」

「お父さん、千夏さんはそう謂う意味で言ったのではなく、思慮深い人でしょうと想って言ったんでしょう」

「嗚呼、なるほど確かに千夏はそんな意味合いや。それで今、聞いたのは菜摘未の話やった」

 なんせあの二人から聞いたものは足して二で割れば丁度だ。今は香奈子の評価が合っている。

「これからもうちの商品の販路開拓に頑張ってくれ」

 と極上の酒を君枝に頼んで、ガラス戸の飾り棚から出してもらった。

「これは辛口だが灘の酒とは水が違うから柔らかくても辛口だ」

 君枝から受け取った四合瓶の栓を開けると、新たなグラスに会長自ら注いでくれた。

「これは先代が三十年試行錯誤して仕込んだ酒や。呑んでみー」

 いただきますと先ずは香りを確かめて、暫く舌で味わってから喉を通した。口で含むと芳醇でありながら適度な刺激のある辛口なのに、喉には少ない刺激で通るから飲み応えがあった。

「どや」

 鴈治郎は覗き込むように小谷の反応を視た。小谷は呑み残したグラスを暫く手の中でもてあそんでからいいですねと言った。

「どうええのや」

 お父さん期待してるわよ、と香奈子に云われて、うるさいと言わんばかりに貌を顰めた。

「辛口なのに口当たりがいいですね」

 これは売れるけれど、とカウンターに置かれた四合瓶を眺めて、値段を聞いてウ〜ンとうなった。

「もう少し安くなりませんか」

 今度は鴈治郎がウ〜ンと唸った。

「数が少ないのや」

 どうもそれがネックのようだ。

 鴈治郎から極上の酒を受け取った君枝は、また飾り棚に戻した。

「今、杜氏の大西さんと量産出来んか四苦八苦しとる」

「お酒の話はそれぐらいにしたら」

 と香奈子に云われて、鴈治郎もそやなー、先代からもっと造り方を聞いとくべきや、と云う独り言が実に子供ぽかった。

「ところで小谷はん、あんたは次男の幸弘とは相性はともかく長い付き合いなんやそやなー」

 どうも彼奴あいつの考えてることは分からんと会長はぼやいている。よくよく話を聞くと奥さんの希実世さんの事だ。

「何で次男は妻の言い分ばかり聞いているのか君なら解るだろう」

「お父さんそれ無理、この前も二階でその話はしたけれど、あたしと同じで余り会ってないからと言うよりこちらから行く用もないし、あの夫婦が来ても二人で話して居るだけであたしも割り込めないし、お母さんは尚更無理だから」

「どうも希実世さんの事なら義姉である千夏さんとは良く話している。それでか、幸弘を戻して君をうちの担当者にしたのか」

「十和瀬酒造の担当は千夏さんは関係ないですよ」

 香奈子は母の灰皿を捨てながら言った。

「表向きはなあ、なんせ千夏は灘の酒造会社でも顔が利いたからデスカウントセンターの社長も無下には出来んようだ」

「それでもさっき呑んだ酒の販路拡張は難しいのですか」

「だからこうして此処で君枝に頼んで安請け合いしにないやからだと想えば振る舞えと発破を掛けているんだ。此処は灘と競合する日本酒の一大産地だそれを目当てに観光客も来るからなあ」

「それよりお兄さん達は上手くやってるの?」

 と言ってから、香奈子にテーブル席から声が掛かったが、君枝が求めに応じた。

「長男は良いが次男はさっきも言ったように何を考えているのかサッパリ解らん男だ」

「でもああ謂う視野の広い人間も時には必要ですよ」

「広すぎて役に立たないんだ」

 その典型があの女房の希実世らしい。

「全く周囲を考えずに自分達の生活だけ考えている」

「でも子供が来年出来るそうですから、それじゃあないですか……」

「わあー、お父さん初孫」

 そんな話は聞いてない。俺より先に何であんたが知っているんだ、と強い口調だが。これとは逆に鴈治郎は破顔した。

「みっともない顔、でも昔はこれでお母さんを参らせたのね」

「そうでもないわよ」

 と賑わうテーブル席に追加のつまみとお酒を補充した君枝が戻って来た。

 君枝にすれば、祇園でお歴々方と一歩も引かずに押しまくった、あの売り込みの姿勢にグラッと来て、今の破顔はその付録に過ぎないらしい。鴈治郎に言わすと、女も押しの一手で惚れたら引くな、が信条だ。そうでないと二人の女を平等に愛せない。ひと世代前なら世間体を無視してでも通用できたが、昨今の時代には世間処か刃傷沙汰に成りそうだ。


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