第11話 十和瀬の話を聴く
事務所の奥は母屋になっていて更にその奥が蔵だ。事務所の縁側の引き戸を開けると、細い路地が奥の工場まで続いていた。その細長い土間を歩くと、広くはないが母屋と酒蔵を分ける庭に出る。庭の真ん中に踏み石が母屋から蔵に続いている。踏み石の両側には紅葉と柿の木が植えてある。紅葉も柿の木も酒造りの時期を
「十和瀬、こんなとこで何をしてるんや」
「見て分からんか」
「ああ解らん、十和瀬には此の樽の中で発酵している酒のもろみの様子が分かるのか」
「樽に手を当ててその温みで発酵しているのが判るそうや、酵母は此の中で生きてるんやそして旨い酒を造ってるんや」
「それで今どう謂う状態や」
「それが解るにはもっと年季がいる」
「ほな、ここに居てもしゃあないやろう」
「解らんなりにも発酵している酒の声を聞いていたいんや」
十和瀬は暫く大きな酒樽を眺めている。そこへ思い切って聞いてみた。
「それで希実世さんとは上手く行ってるのか」
希実世さんの訴えを千夏さんが上手く取り持ってくれた。これでお前にすれば妻を粗略には扱えない。それが分かり切っているのか、硬い表情を中々崩さなかった。
「いつまで酒樽を睨んでいるつもりや」
十和瀬は腕組みを解いで、前垂れを外すとキチンと畳んだ。
「まだ此処で油を売っていて良いんか」
「お前と違って俺は会社からかなり信頼されてる」
ひと言云いすぎたのか十和瀬は渋い顔をしたが、直ぐに含み笑いをした。
「朝から籠もりきりで疲れた。少し陽に当たるか」
と前垂れを大西さんに返すと、蔵の外へ向かって歩き出した。十和瀬は薄暗い蔵から一歩出ると、目を細めて眩しい初冬の光を全身に浴びた。二人は母屋には上がらず、そのまま横の細長い土間を通り、店のパートのおばさんに暇乞いをして表に出た。
「千夏さんに聞いたが、どうしてお前から会長や社長に復職を直接頼まなかったのだ。希実世さんが動くまでほったらかしにするなんて……」
「菜摘未の奴が反対したんだ」
「ハア? どう言うこっちゃ」
「お前が俺の代わりにあの『利き酒』にしょっちゅう行くようになるからだ」
「それは菜摘未からあの日呼び出しを受けた時に解って承知したんだろう」
「表向きはなあ」
菜摘未の考えは、中途半端にズルズルと香奈子と付き合うより、キッパリと彼女から振られるのを待った方が得策だと判断したようだ。
「菜摘未も大した自信だなあ」
「だからルンルン気分の相手も振ったんだ」
民家が建ち並ぶ通りから、大手の酒造会社が建ち並ぶ疎水縁の路に出ると、藏街に沿って歩き始めた。初冬で人通りは少ない時期でも、矢張り此処は若い観光客とおぼしき人がパラパラと目に付いた。
「その菜摘未だが、千夏さんの話では俺が来るようになってから避けてるのはどうしてだ」
「待てば海路の日和ありじゃないか」
「そんな他力本願で動く女じゃない、くだらん話はよせッ」
こんな時にまで無駄な話をしやがるとムッと来た。
「そもそもの原因は、お前が俺に香奈子さんを紹介したからだろう」
しかもそれは妹の付き合っていた相手の為だと知れば尚更だ。
「その相手の男を知っているのか」
「ああ、あの家に一度連れて来た事があった」
お前に似てひょろ長い男だが、顔立ちは流石に妹が見付けただけに品があった。同じ大学生だから三年は付き合っていただろう。どっから見ても相思相愛の羨ましいカップルに見えた。だがじっくり観察する機会があった。そいつと偶然大手筋で出会って飲みに誘うと付いてきた。店は勿論あの『利き酒』だ。暖簾でなく押して開けるドアまではスナックだが、中はずらりと日本酒が並んでいた。相手はウイスキーを
「そう勝手に決めるな、それでも
「菜摘未はあの自転車事故の時のように、何でも利用できる物は利用するんだ。今度の標的はお前なんだ」
「エッ、どういうことだ」
「付き合っている男とお前を見比べてその違いが分かったのだろう、それでお前の方に決めたから、俺は男に別れろと散々勧めたが益々意固地になったから小谷、お前を香奈子に会わせたのだ」
「それじゃあ別れた男は今頃どうしてるんだ」
「そんなこと知るか! しかし先行き不幸になる前に治療しただけだ。あの男が回復すれば俺は用済みだろう」
「再発すれば」
「それも恋だろう、だがそれこそが本当の恋だろう」
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