第25話 散歩路の龍馬像

 厳密に考えれば二人の女を均等に愛するのは道徳に反しないか。

「背徳行為じゃないのかなあ」

「お父さんは浮気は恋で愛じゃあないと変な理屈を付けて誤魔化しているわよ」

 小谷は十和瀬との付き合いは長い。同じように妹である菜摘未とも見知ったが、小谷が親しくしたのは最近だ。厳密にはそれまでの菜摘未はまだ子供で、一皮剥けたのは大学生になってからだ。

「親しい付き合いってどんな関係だったの?」

 問うて来た香奈子の瞳は、いつもより陰りながら揺れる眼差しを初めて見た。ここへ来てから見せた不安げな瞳が、小谷には余程気になった。ひょうきんな小谷の表情から、彼の心の変化を読み取ったのか散歩に誘われた。

 作業場でじっと座って集中していても、筆先を一旦止めると、倦怠感が湧き上り集中力が途切れる。こんな時は気分転換に散歩に出る。全身の血行を活発にして手先に注げば、また絵筆が勝手に走って仕事がはかどる。

 歩くのはいつも大きな酒蔵が並び立つ、疎水(運河)沿いの柳の木がそよぐあたりだ。民家の軒先を眺めながら、冬を遠ざける優しい日差しの中を、疎水べりへ足を運んだ。

「さっきの話だけど小谷さんもあたしと同じで菜摘未ちゃんを小学生の頃から見知っているのに余り喋った事はなかったのね」

 香奈子には妹だが小谷にはまだ子供で込み入った話はしない。たまたま十和瀬家に寄った時に顔を会わす程度で、会話も挨拶程度だ。それに引き替え何時間でも『利き酒』が開くまで二階で、香奈子に勉強を見てもらってる菜摘未とは、接した年月は同じでも、小谷とはだいぶ違う。

「菜摘未ちゃんは中学生頃までは遊びに来ていたけど、あたしが大学生になった頃には友達が出来て家には余り来なくなったのよね」

 菜摘未が大学生頃には香奈子は今の素描き友禅の仕事を始めていた。その頃にはもうほとんど店にも顔を出さなくなった。菜摘未は社会人になってからは月に数回、何かモヤモヤしているときに呑みに来る程度だ。

「菜摘未の行動範囲に合わせて徐々に遊びに来なくなったのか」

「そうね、最初は男兄弟の中で急に出来たお姉さんって感じだったから同じ年頃の友達が出来るとどうしても足が遠退くのよ、でも姉妹だから来ようと思えばいつでも来れる気安さもあって困ったときしか来なくなったわよ」

「その辺が反比例してくるなあ、こっちは菜摘未が大学生前後になると面倒な子だなあとそれまで想っていたのが向こうからよく話し掛けられると最初はドキッとしたが、馴れると彼女の気分に合わせて話せたから親しみが湧いてきた」

「それって急にあの子が色気づいて来たって言うのッ」

 と急に香奈子は不機嫌に声のトーンを下げたが、穏やかな瞳で見返された。小谷は彼女の澄んだ瞳に救われて笑ってすり抜けられた。

「まあいいわ、あなたの好みは解っているから心配ないけど」

 何か意味ありげな言葉にそわそわしたが「余計な事を言ってしまって誤解しないでね」と併せて言われると、急上昇した胸のときめきが急降下してしまった。

 それでも言葉とは裏腹に彼女の溢れる笑顔で、どん底まで落ちずに辛うじて踏みとどまれた。

「此の前読んだ本の感想だけどあたしの想っているとおりなので嬉しいかったわよ」

 これには這い上がれる勇気を少しは与えられた。しかしなぜあの時に言わないで今になって告げるのか、いや、今だから告げたのかも知れない。

「想っているとおり幾ら神学校で徳を積んで司祭になっても、それは徳を極めるより愛を極めれば徳を知らずとも死ねるが愛を知らずしては死ねない。あの本はそう我々に語りかけているけれど、過大な思いやりが愛の集大成なのかなあ」

香奈子は此の先の運河(疎水)沿いに在る、伏見みなと公園に案内した。

 細い木の橋を渡ると『龍馬とお龍愛の旅路像』がある。お龍は懐にいれた龍馬の肘辺りにそっと手を添えて、二人の立ち姿は向かい合うのではなく、揃って同じ方角を見ている。

 香奈子と小谷はその銅像前に立った。此処から二人は、寺田屋でった龍馬の傷の療養を兼ねて九州、薩摩へ旅立つ。

「二人は此処から新婚旅行に旅立ったのよ。お互いを見詰めないで二人とも随分と先を見ている処が同じ大きな目的に向かっている感じがしないかしら」

 同じ夢に向かって寄り添うなんて羨ましいとも言った。

「それで愛の旅路像なのか」

「丁度こんな風に」

 と香奈子は像を見詰める小谷の肩にそっと手を添えた。

「どうしたんですか」

 と小谷が分かり切った質問をさりげなく言った。

「もうー! 、唐変木」

 と添えられた手で、小谷は思い切り振り払われてしまった。よろめく小谷に「大丈夫かしら」と直ぐに気遣われた。

 その先の三十石船の乗り場には、波を模した敷石がはめ込まれていた。その広場に三十石船を模した屋形船と三つのベンチがあった。師走なだけに誰もいないと思いきや、屋根付きの待合所にはトレンチコートに身を包んだ男が独り座っていた。

「アラ、珍しい、この時期に人が居るなんて仕方ないわね、手前のベンチに座りましょう」 

 と桟橋を真似て並んだベンチに香奈子が近寄ると、小谷はそのまま船形をした待合所に乗り込んだ。慌てて香奈子も後に付いていった。

「境田さん」

 小谷は屋形船風の船縁に作られた長椅子に、座り込む男に声を掛けた。男は十和瀬酒造のロゴが入った四合瓶が入ったビニール袋を横に置いていた。男は船縁に肩肘を掛けてぐい呑みを持ったまま、静かに拓けた船着き場を眺めている。  



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