第26話 散歩道の船着場
平安神宮前の疎水もそうだが、伏見の三十石船も冬場は運行されない。桜が咲く春にどっと押し寄せる観光客目当てで、この時期の船着き場は閑散としていた。それだけに此処に居る境田は十和瀬酒造で見た時より孤独だ。さっきは菜摘未に圧倒されたのに、此処には矢張りあの春の開港を待つ冬枯れの船着き場には、トレンチコートの男は似合っていた。
小谷の呼び掛けに、境田は手持ちのぐい呑みはそのままに、視線を川面から二人に移した。
「此の人がさっき聞いた境田さん?」
香奈子は目に留まった十和瀬酒造のロゴから直感して小谷に聞いたが「そうです境田です」と男は小谷の紹介に先んじた。香奈子は、小谷に一度眼をやり、境田の挨拶に応えてお辞儀した。
「嗚呼、境田さん、こちらは菜摘未のお姉さんに当たる香奈子さんです」
境田は唐突に菜摘未と聞いて目の色が変わった。彼は慌ててぐい呑みを振り払ってビニール袋に戻した。
「その酒はまだそんなに出回ってないですが、安物の酒より結構心地良く酔いが廻るから何とか広めたいんですが……」
境田は口当たりに付いては申し分ないのか、軽く頷き口元も少しほころんだ。
「美味かろう高かろうでは、後は値頃感だけだろう」
まあねぇ、と話に乗ってきた境田を見て、小谷は香奈子と向かい側の船縁に座った。
「さっき袋に閉まったぐい呑みは別に買ったんですか」
「菜摘未、さんが此の酒に付いてるとわざわざ持って来てくれたんですよ」
ウン? そんな話は聞いてないが、多分、他の酒の景品を渡したのか? それにしてもわざわざ後を追っかけて菜摘未が渡すか? これには香奈子も腑に落ちない顔をしていた。
「菜摘未が何て言って渡したんです?」
境田はわざわざ袋から出したぐい呑みを見せて「これは景品じゃないんですか」と二人と同じ疑問を打っ付けた。
「久し振りだったんで、しかも高い酒ですからおまけしたのと
とは言っても、昨今の菜摘未からは起こり得ない行動に、境田が勘違いしなければ良いがと気を揉んだ。
「そうかも知れませんね、店で見た時より小さい箱に入った物を差し出した時の菜摘未さんはそんなに無愛想じゃなかった」
それでも笑顔にはほど遠い顔だが、店に居た時とはかなり変わったのには正直胸の支えが取れたが直ぐに彼女に立ち去られた。
境田は残念そうだが、最近、菜摘未とは行き違いばかりの小谷にはスッキリしない。
「その後、小谷さんは菜摘未ちゃんには会ってないの?」
「店を出たっきり帰ってこないから直ぐに君の店に直行した」
「でもうちにも来てないよ」
「いつもと違う彼女の行動には謎だらけだ」
といつも不安定な菜摘未と、真剣に付き合っていた境田も、今日の変化は掴みきれない。
「そうなら境田さんはわざわざこんな所でどうして独りで呑んでいるの?」
此処は彼女の家に来た時にはデートスポットで、春の桜の頃には三十石船にも乗った。三十石船に乗る観光客は年寄りが多く、長生きする彼らと、明日には散ってしまう桜を見上げて菜摘未は嘆いていた。そうかと思うと、彼女の場合は次の動作に移る準備なんて、全く見当も出来ずに、それこそ急に行動するから時には驚かされる。
「その時、菜摘未は、その急に何かをしたんですか」
「隣の老人が呑んでいたカップ酒を引ったくると桜めがけて思い切り投げたんだ」
勿論、老人は驚いたが、すかさず俺が菜摘未の店から持ち出した、特級酒のカップ酒を渡すと、老人は上機嫌になった。隣の妻とおぼしき年配のご婦人が「あなたあんな安もんの酒を呑んでいるから見るに見かねて上等の酒を差し入れてくれたのよ、感謝しなくっちゃ」と言って何とか収まった。店で買ってないのにその酒はどうしたの、と菜摘未さんにえらく追求されました。
「よくまあ店の酒を勝手に持ち出して、しかも高い酒を……」
と今度は万引きの現行犯として問い詰められました。
「本当に万引き
「それって矢っ張り万引きになるの? だって親しく付き合ってる相手の店の商品だろう」
「それでも勝手に持ち出せば矢っ張り万引きじゃないの」
此の二人の勝手な論争に境田は「そうじゃない、菜摘未さんの見てない所で千夏さんがお花見に行くのならとそっとカップ酒を二つ手提げ袋に入れてくれたんです」と謂われて論争にケリが付いた。
「まあそうだとしても、見も知らないしかも船の上でほろ酔い気分になる花見客の酒を引ったくるか」
「そうよね、境田さん、何でそんなことを菜摘未ちゃんはしたの?」
これには香奈子も不可解過ぎた。
「腐った幹には腐った酒がお似合いよ」
と言ったきり黙ったから、境田が高い酒を直ぐに
後で菜摘未さんに訊ねると、いつも今年が最後かと満開に咲き誇る桜なのに、船の周りは大半がお年寄りで、桜が不貞腐れているのよ。だからお神酒代わりに投げたそうだ。
そう言えばあの子は、少子高齢化で老人問題の設問に奇妙な答えを出していた。
桜は幹が腐っていても立派に花を咲かせるのに、年老いた人はどうしてそんな華やかさを保てなくて老い
「それって、それこそ年寄りっぽくないですか。そんな彼女との船上の花見は楽しかったのですか?」
「それはもう傍に居られるだけで、いつも満足感が充実していたんです」
そこで龍馬通り商店街のいつもの喫茶店で待つ、と菜摘未から境田にメールが着信した。
これには全く不可解、と香奈子に言われて、小谷も理解不能だと二人は境田を見送った。
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