第58話 推定

「どうだったの」

 十和瀬酒造に帰り着くと事務所で千夏さんに聞かれた。ワンボックスカーが戻って来たのは夜の八時を回っていた。帰りは疲れもあり北陸道から米原で名神高速道路を通り往きの丹波山地経由より半分の一時間半で帰れた。高速は百キロで走れたが、カーブの多い行きしなは平均五十キロだった。会社経費で落とすと言われて走ったが、矢張り高速は楽だと身に染みた。

 帰り着くと店には灯りもなくカーテンが掛かっていたが、奥の事務所では連絡を聞いて千夏さんが待っていた。店に着くなり応接ソファーにふんづりかえると焙煎珈琲が出た。

「あの感触だと二人に任せて大丈夫だろう」

 小谷の意見に十和瀬も納得した。

「そう、それは良かったわね。電話で一報を受けただけだけど、お義母さんには一応大丈夫心配いりませんって報告して置いたけど、幸弘さんの顔を見るまでは心配だったわよ」

 電話では高そうな観光ホテルを予約したそうだが自腹だと説得した。だいたい菜摘未がそんなにしっかりした金銭感覚を持ち合わせていない。それを千夏さんは心配していた。

「それでホテルはキャンセルしたの」

「解らないが、金はそう持ち合わせてないようだ。境田もその点では気にしてた」

「それじゃあ菜摘未ちゃんの発作的家出なのね」

「何だ、それ」

 小谷は千夏さんが本当に義妹をしっかり見ていると思った。

「そういう兆候ってあるの?」

「どうだろうね幸弘さん」

 千夏さんは話の途中から十和瀬に尋ねた。

「俺にはサッパリ解らん」

 これには小谷が怪訝な顔をした

「オイオイ、今更何を言い出すんだ。菜摘未の事ならさっきまで、あのホテルのロビーで俺よりよく知っているって言ったよな」

「あれは愛情についてだ」

「希実世さんの気持ちを掴めない十和瀬によくそんなことが言えたもんだ」

「俺の家と一緒にするな」

「アラまあ、幸弘さんって、それで良く説得に行く気になったものね」

「多分、おやじの愚痴話ならそこそこ話は繋げられると踏んだからだ」

「十和瀬、鴈治郎さんの何を解っているんだ。あの人は仕事の延長に女の人が居たんだろう。君枝さんはもう歳を食ってるけど、昔はサッパリした小粋な処がやるせない男心を引き留めさせられたって聞いたけど」

「ヘェ〜、小谷さんってあの店へよく行ってるんだ」

「昼間はねえ」

「それだけで今日は後を追いかけて良くもすんなり菜摘未ちゃんが話を聞いてくれたものね。車の運転で幸弘さんが引っ張り出したのかと思ったけどそうじゃなかったの」

 小谷に関してはどうも千夏さんは、香奈子さんに義妹がライバル意識を持って、躍起になりはしないかと心配したそうだ。

「そう、取り越し苦労だったのね。でもどうして改心させたの」

 千夏さんがふと発した思い留まらせたでなく『改心』を聞いて胸の何処かにわだかまりか出来た。しかし今はそれを確かめなかった。

「でも、あの後、二人はどうしたか知らないけど……」

「大丈夫よ、これからの二人には幾らお金があっても足らないから、そんな豪華な観光ホテル何かには泊まってないわ。もう実家か、それとも夜汽車に揺られながら振り出しに戻っているわよ」

 確かにそうだ。もし、もしも、あのホテルに二人泊まれば安い部屋でも五万はくだらないだろう。

「オイ、十和瀬、お前もそう期待出来るのか?」

 此奴こいつに女心を期待しても無駄か、ならば希実世さんの苦労が目に見える。

「だってそうでしょう。想いを寄せない人に、たとえ、誰も居ない無人駅でえている人にそんなにまでしておどけてパフォーマンスを演じる人はいないわよ」

 境田から聞いた渕垣の無人駅での話を小谷が仲介した。それで二人は何とか気持ちを繋ぎ止めようとしたと千夏さんは受け取ったのだ。だが小谷にはそこまで考えが及ばないし、十和瀬に至っては笑止千万な話だと真に受けなかった。そこは千夏さんはしっかり受け止めて、心配してくれる人の存在の有り難みを分け合える。これが菜摘未さんには少ない愛情表現より一番にこたえるらしい。

「義妹は幸せな人なのね。だって急に姿が見えなくなればみんな慌ててくれるんですもの」

 そこが義父と似て、二人の女性を慌てさせないように上手じょうずに取り計らっていた。なにも愛の言葉だけを並び立てて巧みに語る人を相手にする人ではない、と千夏さんは菜摘未をそう捉えている。ただ日にちを置かずに行動する処が義父と違った。

「まあ、とにかく年明けには二人元気に挨拶に来るわよ。それより今が新酒の正念場よ」

 いたって千夏さんは気分転換の早い人だ。

 年が明けて新しい一年が始まる。でも菜摘未は帰ってこなかった。だが十和瀬家の面々は悲観していない。吉報と言えるかどうか解らないが、加賀温泉の観光ホテルの当日宿泊をキャンセルして、二人は駆け落ちしたのだ。その報せは境田から小谷に入った。

 十和瀬酒造の新年は新酒が出来上がった時で、今は樽の中で発酵中だ。此の時の温度管理で発酵状態が変わり、味が微妙に変わるから気が抜けない。世間の謂う新年気分はないが、管理するのは杜氏の山西さんだ。それ以外は気を揉むだけだが、菜摘未が境田と駆け落ちした今は、樽の酒に集中出来て、小谷も十和瀬も北陸まで足を伸ばした甲斐があった。勿論おやじは、娘の勝手な行動が、おやじそのものにあるとは、薄々感じていても口にはしない。それが美徳とされる古い年代の面影を、十和瀬鴈治郎と幸弘は引き摺って、それに菜摘未は反発したに過ぎない。

 



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