第48話 菜摘未の異変

 今日は伏見の十和瀬酒造でなく別の営業区域を回り、菜摘未の経過はどうであれ少しはあの煩わしさから解放された。

 卒業してから変な男に付け回されて、菜摘未がどんな大学時代を送ったか解らないが、今回の事件は香奈子から聞いた話では、菜摘未にも心の隙があって招いた惨事だ。向こうが真面で菜摘未が変なのか。まあ、どっちのせよこれであの男もハンドバッグと自転車のダブルパンチを喰らって目が覚めた。

 それより小谷にすればどうして菜摘未の誘いに乗ったのか。香奈子を知る前ならそれは致し方がない。菜摘未は遠くを見詰めるような眼差しで、身近に居られると矢張り興味を注がれた。いっときは十和瀬に会いに行ってるのか、妹伺いにいっているのか混同した。そんな時に十和瀬が香奈子を紹介して救われた。それらを総括して振り返ると、今更ながらハンドルを握る手も重くなる。そこに突然、携帯にメールの着信音が鳴った。酒の追加注文かと発信を見れば十和瀬からの急な連絡だ。丁度信号待ちで何だろうと、携帯に向かって叫びながら十和瀬が寄越したメールを見た。

 今日の営業予定区域を変更して我が家に寄ってくれ! ! 。何だこれは、しかも感嘆符をふたつも付けて。

「全く、年の瀬でも、もう少し前ならまだ得意先回りにも余裕があったのに、今が一番忙しい時になって急に呼び出して、醸造タンク内の発酵に異常事態でも起こったのか、しかしそんなもんは俺に報せてもお門違いで、それは杜氏の山西さんに訊け。それとも仕入れに影響するほどの異常発酵なら確かに一大事だがなあ……」

 醸造タンクを睨むしか能のない奴が慌てるのならそれしか無いと、小谷は早速十和瀬酒造に車を走らせた。

 店に着くと車を駐車場に駐めるのもじれったいぐらいに焦った。だが店のおばさんはいつもと変わりがない。そうだろうなあ、此の人は商品を売る人で、作る人じゃあないわなあ。だがそれでも事務所にいつも居る千夏さんの姿が見えない。アレ? と矢張り不安が増幅して、直ぐに奥の酒蔵に向かった。いつものようにそこに十和瀬は居た。まあ、メールを寄越したのだから当然だろう。

「千夏さんが居ないがどうしたんだ?」

 先ず最初の疑問を十和瀬に打っ付けた。どうやら千夏さんは此の異変に、今が一番肝心な時なのに朝からあちこち出掛けていた。そこへ丁度杜氏の山西さんがやって来てタンクの中を覗いて「そろそろ目が離せなくなってきました」とノンビリ構えて十和瀬と代わった。何だ此の山西さんの落ち着きようは、じゃあおかしいのは酒蔵じゃあなかったのか。当てが外れた。じゃあ何が違うんだ。

「どうした!」

 一層慌てて問いただした。

「此処では話せん! 表の事務所へ来いッ」

 どうやら醸造に専念する山西さんの耳には入れたくない。それに十和瀬はいつもより気が張っている。事務所に戻ると、今度は店のおばさんの耳に入れたくないのか、香奈子の家に行くと言い出した。山西さんと謂い、店番のおばさんまで知られたくないのは何だろう? 。

「さっきから勿体ぶってさっさと用件を言えッ」

 店から表へ出ると十和瀬に噛み付いた。今度は急に黙り込んで更に脚を速めた。

「おい、十和瀬、いい加減にしろ。どうした」

 辺りを見てからようやく十和瀬は歩幅を落とした。

「菜摘未が居ないんだ」

「いつものことじゃないか」

 なんだそんなことか。それで呼び出すなんて大袈裟な話だ。

「昨日から帰ってこない」

「朝帰りか」

「バカモン、何時だと思ってるんだ」

 珍しく奇声を発した十和瀬を見て、やっと小谷も事の重大さを認識し始めた。

「家出か?」

「今晩も帰って来なければ確定だろう」

 今日が初日か。

「ストーカーが効いたのか?」

 最近、菜摘未が動揺したとすればそれしか見当たらないが、しかしそんな神経の持ち主だったか彼女は。

「そんな柔な奴じゃあない」

 矢張り十和瀬も同感か。

「だって香奈子さんの所で泣き崩れたんだろう」

「あれは別もんだ」

 だろうなと思う間に君枝の店に着いたが、まだ喫茶の開店前だ。十和瀬はドアを叩いて呼び出した。出て来た君枝に「インターホンぐらい付けろよ」と返事も待たずに二階へ上がった。

 香奈子はまだ仕事前なのか、居間で紅茶を飲んでいた。

「幸弘さん、何なの急に」

「菜摘未は来てないのか」

「それならさっき千夏さんも来たわよ。菜摘未ちゃん何をしでかしたの?」

 取り敢えず二人は座ったが、紅茶を用意する香奈子に、十和瀬はいらんと仏頂面して断った。これには小谷も落ち着けと声を掛ける。これに香奈子はいつもと違う雰囲気に冷静に十和瀬を見た。

「何かあったの?」

「菜摘未が昨日帰って来なかった。千夏が境田の携帯に電話しても繋がらないんだ」

「じゃあ電源を切ってるか圏外何でしょう」

「営業中に電源を切るか、まして圏外のような山の中に境田の得意先なんてない」 

「じゃあ会社休んでるのかしら?」

「会社にはインフルエンザだと言って休みを取ってる」

「じゃあ菜摘未さんはお見舞いに行ってるの?」

「行くわけないだろう」

「じゃあどうしてるのかしら?」

 ここまで来ると香奈子さんも怪しいと気付き始めた。

「今、千夏が境田の部屋へ行ってる」

 十和瀬の携帯に千夏から電話が入った。

「あっ、千夏か、どうした。境田は」

「それが留守なのよ」

「あいつの実家はどこだ?」

 みんな知らなかったが、小谷は境田から、丹波山地の渕垣と謂う無人駅だと聞いた。そこで千夏さんには、彼の詳しい実家を調べる様に頼んだ。

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