第54話 菜摘未の意義

 食事を終えて珈琲がテーブルに出て来た。矢張り腹に詰める物を詰めると安心感が漂い、さっきの陰険モードは何処へやら、此処で十和瀬は煙草を一服した。十和瀬の煙草は精神安定剤だ。先ほどの陰険モードの裏を返せばそれだけ妹を想っていたのだ。小谷は今更ながら香奈子さんを巡り合わせた理由が解らなくなった。一体この男は何を考えているのか、それは今に始まった訳でない。十数年に及ぶ長い付き合いの中では何度も浮かんだ謎だが、香奈子さんの件だけは掴みきれない。十和瀬の吐く紫煙を眺める境田は全く別な考えに囚われていた。父親の鴈治郎さんの不倫には頭で解っていても、いささかの後ろめたさも感じさせない十和瀬に境田は戸惑いを感じてる。それが菜摘未さんに大胆な行動を取らせたと。

「ところでどうでしょう、気分の落ち着いた処で菜摘未さんはいつからそんな風に」

 と言いかけて、十和瀬の怪訝な目付きに境田は慌てた。

「お父さんの事ですが……」

 と言いたいのは妹でなくあくまでも父親だと、境田は追求の矛先を限定している。十和瀬にしても、まだ聞き漏らしてた事実があれば、聞き取る必要を感じて此処は穏便に対処した。

「それで内の妹は境田さんの妹さんに他に何を話したんだ?」

「お父さんの愚痴だけですよ。それも強烈に批判していた」

「それはさっき聞いた。不倫の話だろう。だけどおやじは公平に片手落ちのない対応をしている。それほど批判されるはずもない」

 対応? それは愛じゃないのか。これは言葉の置き換えだ。十和瀬が時々使う悪い癖だと小谷は微妙に反応した。

「それでもうちの妹は菜摘未さんの言うのはごもっともだと感心してました」

「どんな内容なんだ」 

 思わず十和瀬は身を乗り出してフィルターの手前まで吸った煙草の煙が、境田に流れて慌てて揉み消した。境田の情報に手抜きがあっては困ると更に念入りに消し止めた。

「先ず相手の女性が素人でない、つまり祇園で接待を生業なりわいにしている女だと謂う事でした」

「別にそれが取り立てて騒ぎ立てるものでもないが」

「それが菜摘未さんに言わすと、男目線から来る男の身勝手さを痛烈に批判してるんです」

「どんな風に」

「例えば、家庭がありながら不倫の水商売だった相手には本宅の近くに一軒の店を持たして、しかもその店に父は出入りしている」

「それが痛烈な批判に当たるとは思えないが……」

「十和瀬、お前は神経が少しズレている。菜摘未の身にもなれ」

 とは言うものの、小谷にもそんな菜摘未に愛想を尽かしていた。心をいためるのはどっちだと言いたくなる。それでもあの頃は十和瀬の家に寄るたびに、まだ純真な子供心を残していた菜摘未にすれば、大人になるまでは父は絶大な一家の保護者であり得たのだ。

 子供の頃の菜摘未を納得させるのは無理としても、大人になれば色んな事情でそこそこ男女の深い溝を受け止める。そこで思い切って断ちきれない男女の深い思いを懇々と説明して遣らなかったのが、ここへ来て父と同じ立場に晒されている。それで長年避けていた不満が一気に爆発した。特に父には計り知れない不満が表面化して此の行動に走らせた。鴈治郎さんが無言で子供達に与えてしまった屈折した歪んだ愛情を、どうしてもっと男女の情がいかに有るべきか、話して聞かせて父と同じ道は閉ざすべきだった。父の愛情に対する認識不足の怠慢が招いた悲劇だ。今からでも何とか矯正するように努力を惜しむな。今や菜摘未は自身の男性遍歴と父の不倫を天秤に掛けて、その不釣り合いな天秤の傾きに翻弄されている。

「それはお兄さんの所為せいでは無いでしょう」

 小谷の意見に、境田は菜摘未の本性をどこまで捉えているか、いや、見抜いた上で兄を慰めているのか。

「しかし妹は俺も非難の対象にしているらしいが、本当に言っていたのか ?」

 境田が聞いたのは彼の妹からだ。舞鶴の帰りに問い詰めて聞いてはいない、と十和瀬は一筋の希望的観測で期待した。

「お兄さんの希望に添えかねないなあー」

 境田は菜摘の切実なる思いは、そんな父を野放しにする十和瀬の道徳観にある。強いては、それが小谷との溝を深くした原因と捉えていた。だが小谷は境田とは違った。これは菜摘未が持って生まれた性分で、それにお父さんの行動が増幅された結果だと言いたい。 

「独りよがりなら良いんだが……」

 境田が漏らしたため息のような言葉に十和瀬と小谷は注目した。

「お袋以外の女に溺れて不徳を実践したおやじは別にして、独りの妻に対して誠実に対処してる俺に対していったい妹は何を言ったんだ」

 十和瀬の希実世さんに対する誠実さはくせ者だ。あれほど惚れた女に対して不器用な人間はお目に掛かったことはない。子供が出来れば更に話す言葉を厳選すれば、もう俺の手に負えない、と小谷が思うのも無理のないほど愛に対して不器用な男だ。おそらく菜摘未はそれを言いたいのだろう。

「菜摘未さんはつくづく言ってましたよ『父は惚れた相手には言葉以上に行動するのに兄は本当に好きな人には何も言えないのにサッサと小谷さんと香奈子姉さんを引き合わすんだから呆れて物も言えない』なんて聴かされたんですよッ」

 これは矛盾どころじゃない、背徳だと境田は云いたいようだ。これに小谷が同感しても、本当の愛の対象者を授けてくれた十和瀬はこの点に関しては、神の使い、天使に等しい。 

「十和瀬、如何どうする。俺たちには菜摘未に立ち向かう言葉は持ってない」 

 そうだなあ、とつぶやきながら十和瀬の目は小谷でなく境田に向けられていた。


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