第3話 愛人の店
伏見桃山駅近くには御香宮神社や寺田屋旅館の名所もあるが、改札を抜けると、目の前は大手筋通りというアーケードの在る、賑やかな商店街になっている。十和瀬の家はその先だ。
「どっちを先に行く」
「実家は忙しいのか」
「酒造りはこれからで、仕込みまだ先だが杜氏の山西さんと兄貴はその方針を聞くぐらいだから、先ずは君枝さんの店に一度寄ってからでもいいだろう。その方が小谷には帰りにまた気軽に寄れるだろう」
「そうだなあ」
話が決まると二人は賑やかな商店街を横目にして二筋目の脇道に入った。人通りは少なくなるが込み入った横の通りにも、商店街ほどでは無いが店はある。流石は酒所の伏見だけ在って殆どの店には、蔵元の地酒のポスターが張り出してある。その中に一軒の居酒屋風のスナック『利き酒』があった。勿論洋酒でなく地元蔵出しの酒が全て揃っている店だ。
流石に昼間は閉まっているのを無理に呼び出した。
「用なら裏へ回ってくれ」
と中から甲高い中年の女性の声がした。
「俺だよ幸弘だよ」
「何だ幸弘か、ちょっと待っとくれ」
ガラス戸の向こう側のカーテンが開かれると、君枝おばさんはしゃがみ込むと、下の鍵を外してドアを押し開けた。店を開けているときは着物だが、今は白に花柄をあしらったワンピースから、華奢な体付きが余計に小柄に見えて、色白の頬から伸ばした髪が肩に掛かると少し面長に見えた。いつもながら此のおばさんは流石に十和瀬酒造の二代目の御曹司が惚れ込んだだけの色気を五十の坂を越えても漂わせていた。
「おや、小谷さんもご一緒なのかい」
「そうでないと俺が昼間から此処へ来るわけないだろう」
「じゃあこれから実家に行くから寄ったのかい」
「その前にちょっと実家の様子を聞こうと思ってな」
そう言いながら十和瀬は奥のカウンター席に座った。君枝さんと十和瀬がカウンターを挟んで煙草を吹かし出した。
「小谷、お前は二階の香奈子に用があるんだろう」
小谷は君枝さんと目配せして二階へ上がった。二階へは店からも上がれるが、彼女の為に裏口からも上がれるが、まだ小谷は上がったことがない。
十和瀬家の三兄弟とは腹違いになる香奈子さんはスナックの二階で母親は一階奥に住んでいた。そこで香奈子は奥山工房と謂う友禅会社から素描き友禅の仕事を廻して貰っていた。
二階は二部屋の内、一つを仕事場として一畳半ほどの横長の仕切りに、天井から四隅に柱を取り付けて、左右の柱の間に取り付けた駒に、長い反物を上から下へとベルトコンベアのように交互に通して張り巡らせる。その一番下に座って手送りしながら、白生地に奥山工房から依頼を受けた柄を描いていた。
香奈子は上がって来た小谷を軽く会釈をしても、筆を止める事なく続けていた。小谷も心得た物で丁度一つの柄を描いている最中だと判り、彼は邪魔をしないように反物を挟んで、そっと向かい側に座って暫く眺めていた。今彼女が描いているのは付け下げ着物の上前で、着物にすれば肩の柄から流れるように小枝が着物の上前になる当たりで大きな大輪の花が咲き、その周りには緑の葉が重なるように広がっている。おそらく着物に縫い上がれば膝当たりに此の花柄が来る。ちょっと粋に膝を折れば丁度折った膝頭に此の大輪の花が咲き誇ったように見える。そんな香奈子の着物姿を想像していた。やがて上前を描き終えた香奈子は絵筆を置いた。
「暫く来なかったわねぇ」
香奈子は母親に似て、面長で更に長くの伸ばした髪を、後ろに引っ詰めていた。目元はキリリと引き締まっていて古風に見えるが、笑うとほんのりと三日月になるが、その瞳は引き締まった目元と同様に一種の光彩を放っていた。小谷に謂わすとそれが堪らなく心を繋ぎ止められてしまう。人を喰ったような顔をする君枝と違って、娘の香奈子は深い洞察力を持って、相手を見透かすような瞳に、多くのプレイボーイと称する輩をたじろがせた。小谷にはその眼差しが、知性を覗き視するように突っかかって来る。
「此の前、渡した本読んでくれたの」
「読んだ」
「どうだったの」
「あんな激しい恋にはついていけないよ」
「でもあれが本当の恋よ」
そうか、凄い恋を知ってるんだ。そんな香奈子のあの絵筆のタッチを見ていると、あんな小粋な着物もきっと着こなしそうだ。
「何であの本を推薦したんだ」
「暫く来ないからよ」
全く会話になってないが、不思議と意思疎通は図られていた。彼女のあの瞳と同様に分かり合おうとする姿勢と、伝えたい努力に開きがあっても、あの気分で
な〜に焦ることはない、十和瀬から彼の腹違いの妹を紹介されてからまだ日は浅い。切っ掛けは菜摘未の気性の激しさに振り回されたからだ。それまで菜摘未は単なる十和瀬の妹だったが、少し前に男を振ってから急に小谷に近付いてきたのだ。その逃げ場になったのが香奈子だ。だから本心は十和瀬幸弘同様に
「あなたたちどうなの」
と下で君枝さんに聞かれたが曖昧に返事をした。これには十和瀬も少し眉を寄せたが二人は揃って店を出た。
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