第50話 菜摘未の思惑

 十和瀬にすればこういう大衆向きのレストランは馴染みが薄かった。彼はいつも凝った料理を出してくれる小料理屋に好んで足を運んでいた。それに比べると実にアッサリした下ごしらえでまかなわれた料理を余り食べた記憶がない。想い出すとすれば大学時代に学食に飽きて近くの居酒屋で食べたぐらいだ。

 小谷がいつもの日替わり定食を食べ終わると、十和瀬は物足りなさを感じたが、今はそんな話はこれっぽっちも言い出さない。それだけ頭は妹で一杯だと小谷でも悟った。食後の珈琲に至っては何も言わない。

「ところで今度の妹の行動は、お前に業を煮やして起こしたと俺は睨んでいる」

 ならば根拠を示せと十和瀬に迫りたいが、話を境田に戻した。

「境田は菜摘未には逆らえないと見ているが、十和瀬はどうだ?」

 十和瀬に境田を値踏みしている。今度のことは一切係わってないと云う小谷の目を覗き込むように、真意を十和瀬は確かめようとした。

「境田との逃避行か」

「そうとはまだ決まってない。菜摘未が独りで世間の干渉を避けるために行くはずもないし、そんな気分にふける女でもない」

 渕垣の無人駅で列車を待つ間に、境田を独りの観客に見立てて歌舞伎役者のように菜摘未が大団円を演じた話を想い出した。

「それは本当か?」

 十和瀬は信じられんと言う顔で訊ねた。

「これはあくまでも境田の話だ。此の場合、菜摘未が嘘を吐く事もないし、いつわらずに此の話を聞く限り、菜摘未は境田をもてあそんではいない。兄の思いを汲み取れる菜摘未が境田に対していい加減にたわむれたわけではないだろう」

 そもそも菜摘未が丹波まで、しかも鈍行しか停まらぬ無人駅に気まぐれで行くか。境田の故郷を見てみたいと女がそう思い込めば、そこに中途半端な気持ちはない。

「その時の境田はどんな心境か聴いてみたのか」

「観客と舞台がひとつに結ばれたときに演じる者と見る者との心の垣根が越えられた。それは菜摘未にも言えたんじゃないか。それで俺を香奈子さんに紹介した、違うか」

「妹はともかく境田はそうだろう」

「人の巡り合わせを上手く計算出来るお前が、どうして妹の切ない思いを知らないのは余りにも近くを見過ぎて少し離れて俯瞰すれば見えないものも見えたはずだ。お前と希実世さんの仲を一番見通せているのが十和瀬、お前でなく妹の菜摘未とは皮肉なもんだなあ」

「そんな言い方はないだろう。妹にしてみれば社会に出てまだ先の見込みのない者を相手にするより子供時分から見知った小谷に寄ってくるのは普通の成り行きだ。どうも肝心のお前が今ひとつ気がないと見分けると妹に早めに傷が出来ないうちにけじめを付けさせたが、あのとおり頑固で、それでいてアッサリと切り捨ててしまうほど心の振れ幅が大きくて、馴染みにくいのなら惰性でそのまま相手を振り回してしまう。そこをスッパリ切り替えてやるのが兄で有る俺の仕事だ」

「それじゃあ菜摘未の熱を冷ますのでなく、傷口を大きくしないために紹介したのか。それを察して未だに何も根に持ってないのもそうなのか」

 小谷と菜摘未の交際を語れば数行で終わるが、それに引き替え境田の語る菜摘未には複雑怪奇と云えるほど様々な要素が折り込められている。それを遠目に見ながら十和瀬は当事者の話を聞かずに未練がましくなくスッパリと切り替えて仕舞った。

 十和瀬の家に頻繁に来る小谷に比べて、境田は会う機会は少ないが、妹と真面に付き合っている。十和瀬にすれば常に目の届く範囲に居る妹には、語らずとも解ると熱のない小谷を観て、妹の本心を見極めないまま小谷に香奈子を紹介したのだ。これに妹は表面上は甘んじて受け入れている。此の反動とは思いたくないが、大学時代に好意を寄せられた境田を一方的に休眠状態にした。

「この過程をどう思うのだ」

 小谷は今更ながら、話さなくても妹は解ると言う十和瀬の勘に、疑念を挟まざるを得ない。

「今更聴かれても応えようがないだろう」

 無責任の一語に尽きる。これは希実世さんとの生活の中にも汲み取れた。十和瀬夫妻は菜摘未と小谷の努力に依って形成されてる。

「もう直ぐ子供が出来る十和瀬の家庭と、俺と香奈子さんの仲から菜摘未は何かを掴んだのではないか」

 それを言葉に出来ない歯痒さに菜摘未は苛立っていると解釈してみると、今度の出来事はすんなりと収まりそうだ。

「妹は行動が先で後からその理由付けに苦労しているのは確かだ」

 それがなんだと言うのだ。そんな十和瀬の後ろ姿を見て、菜摘未は勝手に行動するようになった。それをもろに浴びて困惑している男が、目の前で珈琲を飲みながら話している。

「だから今回も勝手に行動するようになったのだ」

 推測でものを言いたくないが、相手はそう謂う人間だ。それは言葉少ない兄の影響をもろに受けた。聴いてるかとうなりたい。

「困ったもんだ」

「困っているのは十和瀬、お前でなく多分同行しているはずの境田だ」

「心当たりはその境田一人に絞って大丈夫なんだろうか?」

 今になって此の男は妹をどこまで正確に把握しているか不安になってくる。

「今更ほかに誰が居るんだ」

 候補に挙がる人物がいればサッサと言え。

「解らん」

 ハッキリいないと言えないのか。

「菜摘未の想いについてはもう十分に協議した」

 語り尽くしたのでなく、協議に替えたのは菜摘未に振り回された小谷の冷めた感覚だ。

「それでいつ行く?」

 もうひと晩待って明朝にする。ならば休暇届を出して同行すると小谷は言い出した。境田が気になる十和瀬もこれで胸を撫で下ろした。




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