第9話 千夏の話
千夏さんの努力で幸弘は十和瀬酒造会社に戻った。まあ一応会社はこれから本格的な醸造に入るので馴れた人ならと戻したが、妻の希実世には家族は余りいい顔はしていない。それでも住宅補助はしている。これだけはあれほど毛嫌いしていた会長の妻も賛成したから、幸弘の住まいも手入れされたマンション暮らしに代わった。それだけに幸弘夫妻は千夏さんに対しては頭が上がらなかった。
千夏さんは神戸の人だ。伏見と二分する同じ酒所の灘で、矢張り酒造関係の家に生まれ育った。そこへ利き酒の品評会で長男の十和瀬功治と会ってから、最初はお互いに相手の酒をまるでけんか腰に貶し合っているうちに一緒になってしまった二人だ。だからお互いに酒にはうるさい。
元々は伏見の酒は甘口で灘の酒は辛口だった。だが初代会長が辛口に挑んでから千夏の家とは繋がりが出来て、啀み合っていた二人だが根本では認め合ったようだ。それで両家では、当人同士は喧嘩ばかりして最初はヒヤヒヤもんだったが、この縁談も最後はスムーズに行った。何がいいかと謂う本質を見抜くのが千夏さんには備わっているようだ。
今までは十和瀬幸弘に呼ばれたときだけ小谷は、十和瀬家を訪れていたが、十和瀬に代わって入社した会社から仕入れの出入りを任されてからは、頻繁に訪れて千夏さんの人となりも判ってきた。
この日も小谷が来ると、店番をするパートのおばさんも心得た物で、大概は奥の事務所にそのまま素通りさせて貰っていた。
千夏さんは酒造会社の若女将にしては、地味な銘仙の着物を粋に着こなして、事机を前に伝票に追われていた。
「どうですか酒の酵母の熟成は」
彼女は事務椅子に座りながらも着物が似合っている。此の前の菜摘未のあの赤いタイトスカートのスーツは何なのだと想わせる。菜摘未も長めの髪だが彼女のは手入れが行き届いているのか、サラッとして屋外なら靡いているだろう。目は整った鼻に合うように細いながらもクリッとしている。丁度額の真ん中で分けて後ろで束ねているから、槍ヶ岳のような額でアルビニストならぐらっと来そうだ。
「順調でそろそろもろみの仕込みに入るから、でも新酒は年明けかしら」
千夏さんに言わすと酒作りは似たような物でも水が違う、だから仕込みはそれに合わせるから最初は戸惑ったようだ。戸惑ったのは酒の違いだけでなく、今の夫の性格にもあった。とにかく酒作りに関しては慌てん坊らしい。あれで仕込みの杜氏の山西さんと、上手く行くのか心配した。お父さんの鴈治郎さんがやり手なだけにねと。酒だけでなく君枝さんの事もチクリと刺している。
「でもね、灘でも酒は女と一緒で、眺めていただけでは埒が明かない。呑んでみて初めてその酒の良さが判るって言うのも満更でもないけれど、女はそうは行かないわよ」
だから少しおっちょここいだけど、女性に対しては誠実過ぎるから気に入っている。豊かな表情を駆使してそう云った。
「そこへ行くと弟はどうなんです」
小谷祥吾にすれば、十和瀬幸弘は掴み所の無い男だった。最初からあのデスカントショップの店長なんて、今の
「じゃあどうして言ってあげられなかったの、十何年も付き合っていながら」
と千夏さんは言うように、小谷より洞察力のある千夏さんでさえ見極めの難しい男だった。これに輪を掛けたのが妹の菜摘未だ。それは千夏さんも判っているようだが、義姉として上手く
「菜摘未はどうしてるんです、あの子はサッパリ判らん。俺が香奈子さんを知ってからやけに愛想良くなってる。どう思います」
うふふ、と彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。
「男と女は、小谷さんと幸弘よりも一本違う溝が横たわっているからよ」
「何ですかその溝は? 深いんですか?」
「さあそれは心の溝ですから物差しでは測れないわね、測れたら揉め事もスッキリ解決するけれど」
「どんな風にスッキリするんです」
「早い話が離婚、でも大抵の男女の溝は推し量れないから別れられない人が多いんでしょう。直ぐに埋められるかも知れないと思って引き摺るから」
「それは大坂城の和睦の条件より難しいですね」
「そうよ、男女の仲は得体の知れない魔物が棲んでいるから」
と彼女は最後は
「でも小谷さんは菜摘未さんを誤解したらいけんよ」
「ハア? 誤解しているのは向こうだろう」
「それでよくもまあ、女ごころを掴めると思っていたら大間違いよ」
あの人の気性の烈しさは負けん気にある。自分に無いものを見付けるとそれを克服したい。そんな意地から来ている。
「でも俺が香奈子と付き合っていても寛容に視ている」
「試しているのよ。香奈子さんが本気で惚れるか。菜摘未さんは若いだけに余裕で試しているのよ。それだけ貴方は難しい人を相手にしているってことよ。人は頂点を見極めようとする人と見極められない人に二分される、で、此の人はどっちなのかと見定める。香奈子さんはそう言う人よ。菜摘未さんはどっちでもない。強いて言うなら見極められない人」
「なぜ菜摘未をそう言い切れるんです」
「あの子の口から聞いたから」
十三年前かしら、菜摘未さんが小学生の時に買って貰った自転車には不満だった。あたしも大人のが欲しいと、無理に乗って怪我をしたときに、お見舞いに来た君枝おばさんを見て、面倒な女が来たと思ったそうだ。
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