第8話 香菜子の場合2
以前は付け下げ着物は訪問着より柄が控えめだったが、人気が出ると柄の繋ぎ目を合わせて、襟から肩、
「どう、ちょっと散歩でもしない?」
「息抜きなら良いでしょうね」
と一緒に歩きたいと
二人は店を出て、宇治川から引き込んだ疎水縁に、大きな酒造会社の酒蔵が建ち並ぶ簡素な道沿いを歩いた。
「今の素描き友禅はいつからやってるんですか」
「ずっと絵が好きで美大を卒業すると親戚の伯父さんの伝で照会してもらったから三年ちょっとかなあ」
「絵が好きなんですか」
「お母さんがああいう人だから、いつも独りで留守番して本もよく読んだわよ。でもお母さんがこの店を任されてからは外に出ずにずっと家に居て、お陰であたしも此処へ引っ越してから近くの宇治川へスケッチブックを持って良く出掛けたのよ」
「それは菜摘未のお陰ですね」
「あら、どうして知ってるの」
「十和瀬が妹の自転車事故のお陰でおやじの失態を知ってからだと言っていた」
会長の話になると、さっきと同じように一瞬瞳が陰った。これで相当気にしているのが判った。
「そうなのよ」
と返事をした時には、切れ間から出た月のように、
「それで菜摘未が怪我をして入院した頃にあの店に引っ越したんですか」
「そうよ、もう家族みんなに知れてしまえばお母さんに一軒の店を持たそうとしたのよ」
母は菜摘未さんが入院したと聞いて急いでお見舞いに行った。その時はあたしはまだ何も知らなかった。病院には家族が揃っていて、鴈治郎の口からお前達の兄弟だと知らされておお騒ぎになった。それで亡くなられた先代会長の「みっともない」のひと言で、此の機会にこうなれば
丁度店の商品を扱ってくれる店を探していたが、みんな大手の酒造会社に提携して中々そんな店が無かった。そこで今の店を作ってくれた。場所も会社の近くで気に入ったお酒があれば、家に寄ってもらって買って帰れるようにした。会社の近くに店を出すことには誰も反対はしなかったが、一人だけ鴈治郎の奥さんが反対したそうだ。それで今でも内とは
とにかくこれで母はやっと陽の差す場所に出られた。それまで母は夜の仕事で昼間は遅くまで寝ているから、香奈子は学校から帰ると入れ違いに母が出て行く、そんな生活が小学校を上がる頃まで続いた。だから私をいつも待っていてくれる母の存在が、気持ちを前向きにさせてくれた。
「家が広くなったので文庫本ばかりだけれど、また多く本を買いそろえてしまったの」
と彼女は茶目っ気タップリに舌を出した。
おそらく二階の二間のうちの一間には、多くの書棚が満ちあふれている。でもその殆どが文庫本ばかりでミニ書棚だ。
「此の前借りた本ですけれど……」
「ヘルマンヘッセね、どうだったの」
「その前に借りた本よりはましですが、これはこれで凄い、一方の友は神学校に残って禁欲をするのに、もう一方の友は神学校を抜け出して、恋の遍歴で次々と女に溺れていき、挙げ句には平行線を辿ったこの二人が、ラストで交差して司祭にまで登り詰めた友に『君は本当の愛を知らな』と告げる処が凄い、でもこれは真実を書いていない虚構だ偽りの世界だ」
そこで小谷はハッと息を呑んだ。
「あの本の感想を一気に捲し立てるのね」
ふと我に返ると香奈子は疎水縁に背を向けてこちら側に立っていた。
「そこまで誰も作者の心の中へ誰も入り込もうとしないのに貴方は踏み込んでいくのね」
とその瞳は硬直した光を放っている。彼は慌てて余計な事を云った萎縮すると、彼女は笑った。
「みんなそうよ、そこに踏み込むにはそれ以上の何かを秘めていなければいけないから、心ある人は永遠に求め続けているのよ」
だから気に入った完成品を視ても時が経てば、求めていた物はこれじゃあなかったと虚しさが湧き上がってくる。じゃあ何なのと煩悶するうちに、次の作品への意欲が満ちてくれば、前の作品は無駄じゃなかったと思えばしめたもの。もう永遠に荒野を歩き続けられる。
彼女が云いたいのは、言葉は見えぬ先の虚構を照らす物、と云う事らしい。
此の言葉遊びが彼女の気分転換になる。香奈子は早々と踵を返して家路に向かった。
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