第23話 境田
冬の柔らかな陽射しが延びてきた。十和瀬酒造前の昼下がりの通りを何度が店の前を行きつ戻りつして、覚悟を決めたように重い足取りで店に男が入って来た。店内で此の様子を見ていたおばさんは、観光客が店の前でお酒を買のを躊躇していると見た。おばさんは男を愛想良く招いたが、店内には所狭しと並ぶショーケースの酒には目もくれずに、店番のおばさんに菜摘未を尋ねた。客でなくがっかりしたおばさんは、奥の事務所にとって返した。奥の事務所では飾り棚に置かれた商品の隙間から店内が覗けるようになっている。来店の気配を知って一部始終を見ていた菜摘未が「あたし一人で応対する」と言い残して店に出た。おばさんは心配そうだが、千夏は大丈夫と太鼓判を押している。
菜摘未が店に出ると、男はぐるりと囲むように並ぶショーケースのお酒を、ぼんやりと眺めていた。
大学時代に声を掛けたのもあたし。卒業して直ぐに誘ったのもあたしだった。久し振りに対面した男は、あの頃と少しも変わっていない。と謂う事はあたしから何か言わなければ、此の男はいつまでも黙って見ている。男は不安そうに対面して視線を合わしてからも沈黙する。彼女は冷めた眼で「何の用なの」と低い押し殺した高揚のない声で訊ねた。男はボソッとひと言「酒を買いに来た」と告げて、彼女の反応を窺っている。意を決して来ているはずなのに。この場に及んでそんな在り来たりな
子供時分から分かり切っていながら、
「もう! バッカみたい。いい加減にしてよ。お酒だけ買って
やっと菜摘未は、演技する我が身のばかばかしさに呆れてしまって、頭ごなしに強気に言った。男はやっと本来の菜摘未に戻ったのを確認すると強気に反応した。
「だからこうして来たんだッ」
菜摘未は黙って奥の飾り棚のショーケースから、四合瓶に入った極上の辛口の酒を目の前のガラスケースの上に置いた。
「此の酒は度数は高いけれど呑みやすいわよ」
男は値段を聞いて驚いたが、その酒を買い求めた。そこへ丁度小谷が注文の取り次ぎにやって来た。男は慌てて酒の精算をして、バツの悪そうに足早に店を出た。
「誰だあの男は」
「見ての通りお客さんよ」
「若い男がディスカウントストアでなく直接酒造会社のショーウィンドウに酒を買いに来るか」
「観光客なら来るわよ」
「あれはどう見ても観光客じゃないし、第一観光客なら観光を終えてから来るだろう」
菜摘未にすれば今日は小谷が来るのが早過ぎた。
「それよりいつも何処へ行ってるんだ」
「貴方には関係ないでしょう」
と千夏さんを呼んで「あの高い酒が売れたわよ」と代金を預けて菜摘未は店を出た。振り返り菜摘未を追う小谷を千夏は引き留めて、後で説明すると言われ、事務的に今日の出荷量の確認を求められた。先に今日の納品書の遣り取りが優先する。事務所に入ると引き替えにおばさんは店に戻った。事務処理を黙って見ていた小谷は、確認が終わると用意された商品を検品した。積み込むのは後にして「さっきの男は誰なんだか」と訊ねた。
「せっかちな人」
「後を追ったのか」
「あの子がそんなことする訳ないわよ」
千夏に云われて、ハッとした。それもそうだと気付いて、俺も余程気が動転したらしい。
「あの人は、担当が小谷さんに代わってからは家には来なかったから知らないと思うけれど……」
あの男を知っているのは家の者でも、あたし以外は義弟ぐらいだ。あの男が店に来るとすれば、パートのおばさんが休みの日曜ばかりで、いつも千夏か幸弘が菜摘未に取り次いでいた。
「あの人は
聞いた小谷は、なんで今頃来るのかと唖然とした。
「多分もう考えも収まってまた冷静になっているだろうと想っていたとしか思えないわね」
それでのこのこやって来るなんて。そんな男が、あの菜摘未相手なら、十和瀬でなくても小谷でも、気の毒がって別れさせたかも知れない。
「家は此の近くなのか?」
「さあそれは知らないけれど、菜摘未ちゃんと同じ大学生だったからこの街の人でしょう」
千夏さんはえらい大雑把でも顔は見知っているが、菜摘未から一度も詳しい紹介がなかった。それだけ彼女は熱を上げていないのが判る。
「別れてからも時々は来るのか?」
先ほどの神経質そうな顔を見ると、ここへ来るには余程の決心が入りそうだ。
「あれから全く来ないし、菜摘未ちゃんからもそんな話もなかったから半年ぶりかしら?」
境田については、菜摘未の口から伝えられる範囲でしか解らないが、別れたと聞いてからはバッタリと途絶えていたそうだ。
「それで何しに来たのだろう?」
この場合は聞かずとも、以前の交際を求めて、やって来たのは間違いないらしい。
「また来るんだろうか」
「来てもお客さんなら仕方がないけれど、もう多分菜摘未ちゃんは会わないからあたしか店番のおばさんがお相手するけど……」
「それで千夏さんはまた諦めるように説得するの?」
「聞かれればね、でも酒だけ買って帰るんなら話は別だけれど……」
事の成り行きは菜摘未次第なので、千夏さんは苦慮していた。
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