第28話 菜摘未の呼出2

 こうなると冷めた珈琲も悪くない。見れば菜摘未のカップも半分減っている。以前から彼女はこんなペースだったのかと思い巡らす。とにかく彼女は復活したのだ。当然今日はこれから何処かへ行くんだろう。高まる気持ちを抑えて冷静沈着を装って手持ち無沙汰に珈琲を飲んだ。

「あの切り子細工の入ったガラスのぐい呑みはね」

 絶品の薩摩焼酎に付いていた物なの。それを今度は似たものをうちが長年醸造してきた秘伝のお酒に付けて大々的にキャンペーンをする。それと急に俺を呼び出した接点はどこなんだ。そんなもの有るわけないと云う境田の結論は速かった。

「あのぐい呑みはもう作っているの?」

「まだ、でも試作品はある」

「今朝、君が追っかけてきて渡したあれか?」

 あれは値が張りそうだ。採算は取れるのか。あの酒は呑めば良さが解る。後は口づてで拡がれば採算が取れる。景品は限定で百個付けて大々的にキャンペーンする。

「それって会社は知ってるの」

「今は誰も知らない」

 話にならないが、ここは、興味ありげに聞かないと、また何をやらかすか知れたもんじゃない。これもその一環かも知れない。少なくとも半年前までは、あの酒造会社にそんな無謀な計画は存在していないし、これからもあるとは思えない。だが彼女の性格を考えると、とても言い出す勇気はさらさら湧いて来ない。

「それでその計画は何処まで進んでるんですか」

「今から始めます」

 これには絶句した。じゃあ帰りかけた僕を呼び止めたのは一体なんなの。

「会長であるあなたのお父さんはどうなんです。あの切り子細工を百個作るにはかなりのお金が掛かりますよ。此の酒を一体どれだけ売ればその費用を回収出来るんですか」

「父は乗ると思う、でも兄の功治は反対する」

 兄は石橋を叩いても渡らないから。だから正反対の千夏さんがホローしている。

「千夏さんは知ってるんですか?」

「今はあなた以外は誰も知らない」

「そんな無茶な相談をどうして最初に僕の所へ持って来るんですか、それに販売をするのなら取引先の人にも相談しないと」

「その人ならさっきまであなたが会っていたでしょう」

「ハア? あの小谷さんですか、でもあの人は僕のぐい呑みには無関心だった」

「あの人はあたしの姉に夢中ですから、あの切り子細工が目に留まっても言い出さないわよ」

「そんな人と大々的に売り出すのはどうなんでしょう」

「それをこれから引っ張り出す為の方策を考えて欲しいのよ」

 何のために。会長はさて置き。先ずは社長であるお兄さんを説得するのが筋だろう。

 お兄さんは千夏さんさえ乗り気なら問題ない。だから小谷さんをあなたは何とかして欲しい。今日、此の人が短時間に珍しく阿修羅から菩薩に変わった原因はそこにあるのか。この人に尽くせば永遠に光耀く菩薩像が夢見られる。そんな幻想は過去に何度も思い描いた。

「その話、面白いですから少し伺いましょう」

 あの頃は二人が此の店で語り合ったのはいつもこんな仕事でなく。もっと希望に満ちたそう遠くない未来の話だ。それが実現出来ると思わせてくれるから、此の人の気まぐれな感情の行き違いにもこらえて我慢した。だが今日は、今までまで聞いたことのない話だ。それも二人の将来には何も描けない店の売り上げを伸ばす話だ。

「それで菜摘未さんの気が晴れるの」

「あたしが落ち込んでいるように見えるの」

 菜摘未は急に何の話かといぶかしむ。いつもなら下らんことを謂うと怒鳴り返すのに、こんな彼女は初めてだ。

「本当に十和瀬酒造の売り上げを伸ばすつもりなの?」

「だってあたしの会社だから当然でしょう」

「でも今までそうしてこなかったのはどうして」

「まだ大学を出て此処でやっていけるか自信がなかったからよ」

 嘘だ! 此の人はそんな誰かのために尽くそうなんて微塵もなかったのに。これから先もどこまで続けられるか、持久走のフルマラソンなんて、そんな思いつきで始められるもんじゃない。仕事にかまけて、何かをすり替えてないだろうか。陽はまだ昇ったばかりだから、暫く様子を見たい。本当にこれで彼女の性格が変えられるなら付き合えるが。

「なぜ気が変わったの?」

 これには猛然と、変わってない。今までの私のままだと抗議された。

 変わってない、とすれば。彼女の揺れ動く激しい性格の原動力はどこにあるか。負けん気だけでは説明が成り立たない。在るとすれば、此の半年で悟りの境地を開いたとしか考えようがない。だが菩薩にはまだ成りきれない。そこをどうなだめるか。それが境田の、彼女に対する愛だと、受け止めてくれるまで、我慢強くえるしかなかった。

「処でどうしてそんな思い付きをしょうと謂う気になったのですか?」

「失礼ね、あたしがその場限りの思いつきだけで動く女だと思われたくないわッ」

 ごもっともだ。それは境田が常々菜摘未に云い続けていた悲願でもある。付き合いを再開したい彼には拒めない立場でもある。

「じゃあその新しい計画をどこから始めればいいんですか?」

「そうね、先ずは外堀を埋める意味で得意先の小谷さんに当たればいいでしょう」

 さっき会ったばかりの人に、直に頼めと云うのか。売る方も難しいが、元彼の要望ならもっと難しいだろう。

「雇われの彼が、そんな冒険に気乗りしなければ販路は閉ざされますよ」

 暗にこれは菜摘未さんの受け持ちだと云いたい。察した菜摘未は「あの人とは付き合いが長くて余計な感情が入るから、今日会ったばかりのあなたが適任です」と言い切られてしまった。どう云う長い付き合いか説明がなかった。


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