第5話 十和瀬の実家

 伏見は丘陵の山裾から湧き出す、その良質の伏流水が酒造りに欠かせず、多くの酒造会社が林立していた。実家近辺には余り酒蔵は無いが、あと数百メートル以内には大小様々な酒造会社の蔵が建ち並んでいる。ゆえば十和瀬酒造は伏見の酒処の入り口辺りにあった。伏見の酒は甘口が多い中で、十和瀬酒造では初代の好みで、主に辛口の酒を造ってきた。それだけに最近は受けて、結構売れゆきを伸ばしていた。

 十和瀬酒造は大きくはないが、まだ住宅街近辺にあって酒蔵も少ない所為せいもあって、結構目立っていた。あと数百メートル行けば、次々と大きな酒蔵が目の前に現れてくるが、創業が古くないから現在の場所に建っている。入り口も通りに面して一般の家屋に溶け込むようになっているが、一旦中に入れば間口一杯に置かれた商品の酒の陳列ケースを通り抜けて、家に上がり込むようになっていた。そこには事務所のような帳場になっている。そこから先が住居になり、家族は主に二階の各部屋で寝起きしている。事務所前の細い路地を抜けると工場になっていた。そこにはもろみや酵母を作る大きな樽が並んでいる。その奥に酒蔵があった。今は米を蒸して発酵させていた。

 二人はガラス戸を開けて、酒の陳列ケースが並ぶ間から、奥の事務所に声を掛けた。出て来たのは、近所から来ているパートのいつものおばさんが、おこしやすと店に出てき来た。

「これは幸弘さん皆さんは奥の工場にいらしゃいますけど」

「判っている今日は妹に呼ばれて来たんや」

「ほならちょっと待っておくれやす」

 そう言うなりおばさんは奥に引っ込んだ。

 さっきの店で何の話をしたか気になった。十和瀬はスナックの看板を居酒屋に書き直せと言ったようだ。変わっているが、だけどああいう中途半端な店が、一軒ぐらい此の伏見の酒処にあっても良いと思う。

「実は此の前に来た客と一悶着したんだ」 

 どうやら観光客が来てウイスキーを頼むと、此処ここは日本酒しか置いていないと突っぱねた。それで客は怒って「スナックだろうそれはおかしいふざけんな」と騒ぎ出した。

「そこでたまたま居合わせた俺が此処は伏見の酒処それを承知で来ているのならそんな野暮なことは言いっこなしですよと、ちょっといかつい顔で言ってやると恐れを成してそれもそうだなあと先の主張を引っ込めたんだが、俺はそんな男に見えたのが不思議とは思わんか」

「観光客だろう伏見と聞いてやって来たのはいいが急に容赦なく洋酒が呑みたくなったところにスナックの看板が目について飛び込んだのだろう」

 そんな奴が何しに伏見にやって来るんだ。頭を冷やせと言いたい。俺もあの看板は前から直した方がいいが、香奈子は「お母さんはずっとスナック勤めで料理が出来ないのよ」と言われてしまったから考えていた。

「そりゃあそうだろう十和瀬あの店だけれどありゃどう見ても日本酒ばかりで洋酒がなければ酒に合う煮物、焼き物の料理メニューを作らないとスナックか居酒屋か判らんだろう」

 あそこで出るのはピーナッツ類にサラミにチーズ、生ハム、フルーツ、チョコポッキー、クッキーどう見ても居酒屋風にさえ及ばない。

「でもあのカウンターと少しだがテーブル席もあるだろう」

「そうじゃないスナックは若い子が酒の相手をするんだろう香奈子さんはいつも注文を取るだけでそれ以外はカウンターから出ない第一ボトルは日本酒ばかりそんなスナックがどこにある」

「だからあそこにあるんだッ」

「もういつまでそんなくだらないお喋りをしているの」

 と奥から菜摘未が出て来た。目元は似ているが瞼は半月以上に見開いている。それがクリッとして光彩を放っている。大学時代はテニスをやっていて髪は邪魔だと切ったのが、男を振ってから伸ばした髪が両肩に靡いていた。今日は珍しくパンツルックでなくスカートだ。しかもタイトスカートにスーツだ。何処かの社長秘書だと間違えそうだ。

「何だその服装は」

「これ千夏さんが着ていて前の会社でいつも事務所で伝票を整理していたのよ似合う?」

 その経理能力を会長が認めて長男の嫁にしたが、矢張りルックス、見栄えが良かったのだ。此の時はあの浮気じじいと十和瀬幸弘は思った。

「千夏は酒造所の若女将わかおかみでいつも着物だろう」

「だから此処へ嫁ぐ前までは此のルックスだったのよ」

「まあいい、お前こそ小谷を呼び出して何の用だ」

 と十和瀬は此の妹の変わりように半ば呆れている。

「それよりさっき店の中で言ってたその話なら聞いているわよ」

 と菜摘未も香奈子からその相談を受けていたそうだ。それともう一つは幸弘の奥さん、希実世さんから聞いた復職願の件だ。

「復職願なら千夏さんに説明したから事務的なことなら社長も会長も女将さんである千夏さんに任せているから」

「ハア? まだ此の家に嫁いで数年だろう」

「何言ってんのお兄さんが結婚で抜けたから千夏さん大変だったのよ」

 とにかく新米の精米と蒸しが終わって、これからのひと月は酵母を発酵させるのにかかりきりで家は忙しい。だから此処では、のんびりとそんな話は御法度とばかりに、菜摘未は近くの喫茶店へ誘った。

 三人は店を出ると、駅と反対にある寺田屋旅館の方に向かって歩いた。あの旅館は坂本龍馬が定宿じょうやどにしていて結構観光客も多く、それなりに凝った若者向けの店が多かった。菜摘未も君枝のスナックの在る大手筋通りより、反対方向の龍馬通り商店街へ向かった。


 

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