第35話 氷姫に諦めるという言葉はない
心が沈むとすべてが悪い方向へと補正される。
いつもと変わらない日常が音もなく崩れ落ち、迷い込んだ悲しみの沼に沈んでいく。
これは夢、まだベッドの中で悪夢を見ているに違いない。
きっと目が覚めれば──いや、そんな都合のいい話こそ非現実的だ。
「誠也……。どうして、どうしてなのよっ! 私の何がいけないのよっ!」
大粒の涙をこぼしながら、瑞希は全身の力で大声をあげる。
昨日までは何も変わらなかったはず。
それが今日になって突然……心当たりがあるとすれば、ラブレターらしき手紙くらい。
まさか……? イヤな予感が瑞希の中で湧き上がり、誠也に聞かずにはいられなかった。
「もしかして昨日の手紙が原因なのねっ? ねぇ、答えてよ、だってそれしか考えられないのよ。私なんかよりもその子の方がいいってこと……?」
もはや自分の本音を隠す余裕すらない。
この短い時間で何があったのか知りたい。
なぜこうも誠也の心が変わったのか。
偽りだから──きっと誠也はそう思っているはず。
初めは確かに偽りだっかもしれない。だが少なくとも瑞希は、偽りで終わらせたくないと思っている。
分からない、どうすればいいのか全然分からず、泣くことでしか今の自分を表現できなかった。
「そんな事はないよ。ただ……」
「ただ何よ、ハッキリ言ってちょうだい! ダメなところがあるなら直すから……」
なりふり構ってられない。
何がなんでも誠也を引き止めたい。
もしここで手放してしまったら……二度と会えないような気がする。
イヤだ、そんなの絶対にダメ。誠也と離れるなど、心が折れるどころか死ぬのと同じ意味であった。
「瑞希が苦しんでるって聞いて、だから僕は苦しめるくらいなら、別れた方がいいかなって思ったんだ」
「私が苦しんでるですって?」
言われれば確かにそう。
誠也が振り向いてくれないことに苦しんでいるのも事実。
違う、きっと誠也は誤解しているに違いない。
思い切って自分が抱いている想いを伝えるべきか──それも無理、もしフラレでもしたら立ち直れなくなる。
だが今大切なのは誤解を解くこと。
冷静に言葉を選び、瑞希は誠也に自分の気持ちの一部を伝えた。
「そんなわけないわよ。だいたいね、誰が言ったのか知らないけど、私に聞かないで結論を出すのはおかしいでしょ! それに……少なくとも私は誠也と過ごしてる時間は楽しいんだからっ」
苦しんでることを全力で否定する瑞希。
好きという言葉を隠し自分の本心をさらけ出す。
恥ずかしさはあるが、ここで伝えなければ誠也には伝わらない。
だからこそ勇気を振り絞り声を出したのだ。
「言いたい事ならまだあるわ。誠也が恋人じゃなくなったら、告白される日々を私に過ごせって言うの? 誠也はそっちの方が幸せだと思ってたの?」
「え、えっと、それは……」
「もぅ、ちゃんと隠さず全部話しなさいよ。話すまで絶対に許さないんだからねっ」
完全に吹っ切れたようで、瑞希は誠也の両肩を掴み、激しく揺らしながら問い詰めていた。
絶対何か隠しているはず。
全部白状するまで続けるつもり。
瑞希の意志は鋼鉄のように固かった。
「わ、分かったから、ちゃんと説明するから、だから落ち着いえてよ瑞希」
「信じていーい?」
瞳を潤わせ上目遣いで誠也を見つめる瑞希。
今度こそ誠也の本音が聞けると思い期待する。
別れたいのは本当に誠也の意思なのか。
もしかしたら誰かの差し金かもしれない。
色々なことが頭の中を駆け巡る中、瑞希は誠也からの返事を緊張しながら待っていた。
「うん、ウソはつかないよ」
「分かった……」
「手紙の人に会ったときに言われたんだよ。僕と付き合ってるてせいで瑞希が苦しんでるって聞いたんだ。だから別れて欲しいってね」
「だ、誰よ、そんな変なこと言ってるのは!?」
「白石萌絵さんって人です。萌絵さんは瑞希が苦しむ姿を見るのが辛くて、僕にそう言ったんだよ。代わりに萌絵さんが義理で付き合ってくれるって……」
瑞希も知っている萌絵という人。
親衛隊のひとりで隊長を務めている。
が……問題は萌絵が自分に相談なしに行動したこと。ではなく、瑞希の中で怒りが沸いてきたのは、最後のひと言だった。
代わりに萌絵と付き合う──それが瑞希の脳内で強調され、誠也を鋭く睨みつける。
その理由は単純で、自分よりも萌絵と付き合いたいのではと思ったから。
嫉妬という悪魔に取り憑かれ、氷姫の面影がなくなるくらい小顔を膨らませた。
「誠也? まさか私よりも、萌絵と付き合いたいからとかじゃないわよね?」
「ち、違うから。僕は瑞希の事を考えて出した答えだったんだよ」
「ふぅーん、なら私が苦しんでないって言ってるんだから、別れるなんてもう言わないわよね?」
「は、はい……」
威圧が凄すぎる瑞希にそう返事するしかなかった。
しかしそこまでしなくても、誠也は同じ返事をしていたはず。
瑞希を嫌って嫌っているわけではない。
本心は別れたくないとも思っている。
そう、瑞希のことを大事に思っているからこそ、別れるのがベストだと判断しただけであった。
「ねぇ、誠也、本当に無理してない? 私が怖いからそう答えたからとかじゃない?」
「それは違う、違うに決まってるじゃないか。僕は瑞希のことを大切に思ってるし、傷つけたくないとも思ってる。だから今回ものすごく悩んでいたんだ」
「そっか……」
こんなにも想われているなんて幸せすぎる。
嬉しくて思わず笑みがこぼれそうなくらい。
でもダメ、この気持ちを表に出してはいけない。
もし少しでも表に出てしまったら──きっと自分の気持ちをすべてさらけ出してしまいそうだった。
「誠也が私の事、そこまで考えてくれてたのは嬉しいわ。でもね、でも……それを証明して欲しいの」
「えっ、証明ってどうやって……」
「決まってるじゃない、仲直りの……キスよ」
恥ずかしい、こんな事を口走るなど普段の瑞希ではありえない。
一度外に出た言葉は取り消すことが出来ず、ほんの少しだけ後悔していた。
こうなれば前へ進むしかない。
瑞希は目を閉じると顔を僅かに上げ、誠也からのキスを静かに待った。
「ほ、本当にするの!?」
誠也の問いかけにも答えず、その時が来るのをじっと待つ瑞希。
その姿に誠也の鼓動が激しくなっていく。
もはや行くしかない──周囲に人がいない事を確認すると、顔を赤く染めながら瑞希の唇に自分の唇を近づけた。
チュッ──。
ほんの一瞬だけのキス。
三度目ではあるが、慣れるというのは全然なく、むしろ緊張しっぱなしであった。
「ねぇ、一瞬だったんですけど、誠也の私に対する気持ちってその程度なわけ?」
ここが攻めるタイミングだと、瑞希は攻撃の手を緩めようとはしなかった。勢いだけで自分に対する気持ちを聞き出そうと、小悪魔的な笑顔で誠也に詰め寄っていく。
余裕の表情は高鳴る鼓動を隠すため。
どんな答えが返ってくるのか、期待と不安が入り交じる。
ドキドキが止まらなくなり、瑞希は緊張しながら返事を待っていた。
「気持ちっていうか、その、こんな人が通りそうなところで恥ずかしいじゃない。僕は瑞希が大切だし、そりゃ、最初は強引で呆れてたけどさ」
「ふぅーん、それが誠也の答えねっ」
「上手く言えないけど、そうなるかな」
「分かったわ、それじゃ今度は──誰も見てないところで試してみようかしら」
思ったよりも悪くない答えに瑞希は上機嫌だった。
主導権は完全に瑞希の手中にあり、誠也がどうなるかは瑞希次第となる。
悲しみの涙は今はもう流れていない。
瑞希の瞳に光り輝いているのは歓喜の涙。
言葉に表せないくらい嬉しく、誠也の手を握ると学校へと歩き始めた。
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