第7話 変わりゆく氷姫

 ただ一緒に帰るだけの放課後。

 慣れているはずなのに、それでも瑞希は緊張していた。

 偽りの恋人──誠也とはただそれだけの関係のはず。


 そう、だから愛なんてあるわけがない。

 それなのに──どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。


「誠也、前原さんとはただの幼なじみなの?」


 勝手に飛び出した言葉。

 心の中で思ってたのは確かだ。それが生き物のように口から外へ出てしまった。


 なんでそんなことを聞きたいのか、自分でも分からない。

 誠也と瑠香がどのような関係であろうと、瑞希にはどうでもいい話。

 そう、ただの虫除けにすぎないはずなのに、なぜだか心が締め付けられる感覚に襲われる。


「んー、幼なじみだけど、最近まであまり話したりはしなかったかなぁ」

「そ、そうなんだ……。それなのに、幼なじみだからって理由でキスする関係なんだ」

「よく聞こえなかったけど、何か言った?」

「な、なんでもないっ! もぅ、誠也のばかっ」


 恋人より幼なじみとキス。

 いや、その言い方は少し違う。偽りの恋人とはキスしないが、本物の幼なじみとはキスする。これが正しかった。


 偽りの関係を築いたのは瑞希本人。

 すべては自分の周りから男を排除するために。

 誠也はそれだけの存在であった。


「いきなり怒ることないじゃない」

「べ、別に怒ってなんてないわよ」


 怒っていないのは事実だが、胸の奥で何かが囁いている。

 耳を傾けてしまったら自分が自分でなくなりそう。瑞希は急に怖くなり、その囁きを無視し続けた。


 一体いつからだろう。

 道端に転がる石程度の存在が、こんなにも気になり始めたのは。

 ダメ、心を許しては絶対にダメ。これは一時的な感情で、本物なんかでは決してない。


 だけど──氷姫の仮面は誠也の前だけ外れてしまう。


「怒ってるようにしか見えないけど……」

「何か言ったかしら?」


 仮面をなんとか付け直し、冷たい瞳で誠也にそう言い放つ。

 これでいい、偽りの恋人とは表面上の関係でしかない。

 特別な感情など不要なのだから……。


「な、何も言ってませんっ」

「そっ、それならいいわ。それじゃ明日もよろしくね?」


 別れ際はいつも通りの態度に戻る。

 これがふたりの普通の関係であり、誠也は特に違和感なく自宅へと歩き始めた。


 なぜだろう──その後ろ姿を見ると寂しく感じてしまう。

 きっとそれは夕陽のせいだろう。瑞希にとって男とは、誰ひとり例外なく自己中心的な存在だと思っている。


 もちろん、偽りの恋人である誠也でさえ……。



 心を揺さぶられながらも、瑞希はなんとか自宅へと辿り着く。

 いつも以上に疲れたような気がし、部屋まで行くとベッドに制服のままダイブする。

 何も考えたくない。そう思っていても、頭の中では誠也と瑠香のキスシーンが浮かび上がってきた。


「な、なんで誠也のことが頭に浮かぶのよっ。アイツとは偽りの恋人なだけなのに……」


 顔が火照り真っ赤に染まっていく。

 幼なじみとはキスをして、恋人とでも偽りだから自分とはキスをしてくれない。

 なんだかモヤモヤし始め、瑞希は枕に顔を埋めた。


 誠也が誰と何しようが知ったことじゃない。

 所詮は偽りなのだから。

 しかし──それを肯定するのが敗北感を味わうようで、瑞希の中で答えがでない。


 誠也と瑠香が昔どういう想いだったのかは知らない。

 いいや、知りたくもない。きっと知ってしまったら、氷姫でいられる自信がなくなる。


「キス……か」


 興味がないわけではない。

 だが男相手にキスなど死んでもゴメンなわけで。

 よく分からない感情が瑞希の中で湧き上がってきた。


「うぅ……。あー、もぅ、なんで誠也のことばっかり考えなくちゃいけないのよっ」


 足をバタバタさせ今ここにいない誠也に八つ当たりする。

 イラついている──今までこんなことは一度もなかった。

 毎日男どもに告白されていたのは、イラつきというよりウザいと言った方が近い。

 分からない、なんでイラついているのか分からなくて、さらにイラつく。


 キスというたった二文字の言葉に翻弄されているのか?

 それとも、誠也が隠し事していたことが許せないのか?


 考えれば考えるほど、思考は出口のない迷宮へと迷い込む。

 自分でどの道を進んだらいいのかすら分からない。

 完全に迷走し始めてしまい、瑞希はシャワーでも浴びて頭をリセットしようとした。



「ふぅー、サッパリしたー」


 水を温めただけのお湯に癒され、瑞希は頭の中が爽快になっていた。今ならイラついている原因が分かるはず。

 冷静になった心でその原因がどこにあるのか探り始めた。


「誠也との関係って偽りの恋人なだけよね。うん、そうよ、告白が毎日続く生活が耐えられないから、女性に興味なさそうな誠也を選んだんだし」


 原点はそこにあり、愛情なんて微塵もなかった。

 好きでも嫌いでもない──道端に落ちてる小石のような存在。だからこそ瑞希は、恋人役に誠也を選んだのだ。


 そう、ただの小石だったはず。

 無機物だと思っていたから氷姫でいられた。それなのに、小石から変わってしまった原因はどこにあるのだろうか。


 思い当たるのはただひとつ。

 水族館でのデートで手を繋いだり、事故とはいえ抱きついたりと、初めての経験をしたこと。その日を境にして、誠也を見る目が変わっていったのも事実だった。


「そう、よ。あのデートが原因なだけよ。初めての経験だったから、同様してるだけなんですから。でも──」


 気になったのはあの日の行動。

 瑠香と沙織の話に誠也が登場したとき。

 つい聞き耳を立てその内容をチェックしてしまう。偽りとはいえ恋人の話題なのだからと、自分に言い聞かせてまで。


 キスという言葉が飛び出した瞬間、体が勝手に動き出し、気がついたときには瑠香に話しかけていた。この行動が瑞希にとって理解不能で、きっとモヤモヤの原因であると考えた。


「キスって聞いたときは驚きましたけど……。そうよ、私と付き合ってるのに、他の女とキスしたとか噂になるのを恐れたんだわ。うん、だから西園寺さんを屋上に呼び出して話をしたんですから」


 屋上での一件は瑞希らしからなかった。

 幼なじみならキスは当然のこと──それが心の中で引っかかり、イライラの原因を作り出しているに違いない。


 原因が分かったのなら対処すればいいだけ。

 ではその対処とはどうすれば……。


「キス……。で、でも、キスだなんて恥ずかしすぎます。だって本当の恋人でもないのに……」


 誠也とキスをする仲だと噂になればいい。

 しかしそれは、瑞希にとってかなりハードルが高い。

 元々男嫌いな上に、自分の体に相手を触れさせるのだから。しかも手ではなく唇を……。


 無理、そんなことは絶対無理に決まっている。

 いくらイライラを解消するためとはいえ、そんな恥ずかしすぎること出来るわけがない。


「うぅ……。一体どうすれば……。あっ、アメリカよ、アメリカみたいな感じで挨拶みたいなキスをして、それを脚色すればいいのよ。それなら──まだ耐えられるかな」


 頬っぺたに軽くキスをする。

 それなら自分の唇でなくていいのだから、そこまで嫌悪感は湧かないはず。既成事実──それさえ作れば、あの幼なじみとのキスが噂になったとしても、浮気だの偽りだのと疑われる心配はない。


 これで問題はスッキリ解決。

 あとは明日誠也にお願いするだけ。

 瑞希は晴れ渡るような心で夢の中へ旅立っていった。

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