第8話 偽りでないキス

 キスをするだけ。それも頬っぺたに軽く。

 瑞希は鏡の前で自己暗示をかけ、朝から大きくなった鼓動を押さえ込もうとする。


「……よしっ。大丈夫、たかが頬っぺたじゃない。外国じゃ挨拶みたいなものだし」


 これは断じて言い訳なんかではない。

 意味合いが日本と外国で違うのは事実。

 日本にはいるけど、キスする瞬間だけ外国にいると思えばいい。


 頬を赤く染めながら瑞希は学校へと向かい始めた。


「誠也、おはよう」


 いつものように駅前での待ち合わせ。

 誠也が先に待っていて、あとから瑞希が来る。これが朝の日常だった。


「おはよう、瑞希」

「あ、あのね、ちょっとだけお願いがあるんだけど──」


 一気に跳ね上がる心音。

 誠也を見るだけで、せっかくかけた自己暗示が解けてしまう。

 伝えないと伝わらない、そんなことは分かりきった話。

 しかしその先の言葉が出てこない。まるで瑞希の意志を拒絶するように、言葉は心の内側に沈んでいった。


「お願い? 僕で出来ることなら聞くよ」

「ううん、やっぱりいいわ。それより早くしないと遅刻するじゃないの」


 ただの気まぐれなのか。

 誠也は言葉の意味を深く考えず、瑞希の手を優しく握り学校への道を急いだ。


 瑞希と付き合ってから──とは言っても偽りではあるが、一週間近くが経とうしている。変わったことといえば、男子から悪意ある眼差しを向けられることぐらい。


 仕方がないこととはいえ、やはり精神的には少しだけ堪える。

 が……愛のメモリアルノートを全校放送されるよりはまだマシ。


 奪い取るにしても隠し場所など分かるはずもなく、女子から強引に奪うなど誠也にはとても無理。

 しばらくは偽りの恋人を続けるしかない──悪意ある視線を除けば、今の生活はそこまで嫌いではなかった。


「そういえば、瑞希のこと知らなすぎるかな。いくら偽りとはいえ、少しぐらい興味を持たないとウソだとバレちゃうよね」


 能天気なのか、黒歴史の心配より瑞希の心配をする誠也。

 もしかしたらお人好しすぎるのかもしれない。


 昼休みか、放課後か、少し瑞希に質問しようかと考えていると、朝のことが急に気になり始めた。


「んー、瑞希が朝言いかけたことってなんだろ。とりあえず昼休みにでも聞いてみるかな」


 瑞希とはクラスが違い、わざわざ会いにいくのもどこか照れくさい。

 屋上で密会するお昼休みなら、誰の視線も気にならない。

 誠也は焦る気持ちを抑えながら、時間が来るのを静かに待った。



 待ちに待ったお昼休み──。

 胸に引っかかっている朝の出来事をやっと聞けると、誠也は意気揚々と屋上へと向かう。鉄のトビラを開け、瑞希が来るのを待とうしていたのだが──。


「遅いじゃないの。この私を待たせるなんて、いい身分ですわね」


 ほぼ同じ時間に来たはずなのに、そこには瑞希がすでに待っていた。

 久しぶりに見る氷姫の姿。誠也はほんの少しだけ嬉しさを感じてしまう。


「ご、ごめん、これでも急いだんだよ」

「まっ、いいわ。それでね、その……」


 突然外れる氷姫の仮面。

 紅潮させた顔で何かを言いたげな表情を見せる。

 朝の続き──誠也はきっとそうだと確信した。


 決して遠くない二人の距離。

 手を伸ばせばすぐ届くほどの距離。

 それなのに見えない何かが声を遮断してしまう。見つめ合うこと数秒、二人の時間がようやく動き出す。


「あーんってのを誠也にやってあげようかなって。か、勘違いしないでねっ。これは本物の恋人だと思わせるためなんだから」

「それなら人が多いところの方が効果的じゃ……」


 誠也の的確なツッコミが瑞希を襲う。

 わざわざ密会現場で、しかも人目の付きにくい場所でやるなど、本当に意味があるのだろうか?

 噂を広めるのが目的なら、教室という人目の多い場所の方が効果的なはず。


 なぜそのような簡単なことが出来ないのか。

 本物ではなく偽物の恋人だから、という理由だからなのか。

 違う、そうではない。瑞希がこの場所を選んだ理由は──。


「うっ、そ、それはね……誠也のためよ。だって誠也ってこういうの慣れてないでしょ? だからその練習をここでしよう思って……。この優しい私に感謝しなさいよね?」


 最後だけ氷姫の仮面を被るも、何かを誤魔化しているのが丸わかり。

 恥ずかしさから顔が真っ赤に染まり、もはや偽りの氷姫にしか見えない。


 そこまでして隠したい本当の理由とは?

 言えない、言えるわけがない。練習は自分のため。もし練習なしで、あーんを教室などでしたら──氷姫の姿を保てる自信がないなど。


 しかし本当に理由はそれだけ?

 それは分からない。瑞希本人も、どうしてこんなことを言い出したのかすら理解不能。

 心の奥で何かが囁き、その声に耳を傾けただけなのだから……。


「そ、そうだね。ぎこちなかったら怪しまれるからね」


 純粋に瑞希の言葉を信じる誠也。

 どうやら人を疑うことを知らないようで、真剣な眼差しで返事をしていた。


 これは決して騙しているわけではない──まっすぐ向けられる瞳に罪悪感が湧き、瑞希は自分にそう言い聞かせる。


「そ、それでは、私が食べさせてあげませね。はい、あーん──」


 恥ずかしさを必死に押し殺し、震える手で誠也の口元へ運ぶ。

 心臓が破裂しそうなくらい大きな音を鳴らし、流れる時間がゆっくりに感じる。


 これくらいのことで緊張していてはダメだ。

 本当の目的はこのあとにあるのだから……。


「どう……? 美味しい? 美味しいでしょ? 美味しいに決まってるよねっ」

「は、はい、とても美味しい……です」


 言わせた感満載だが、その言葉は瑞希に笑顔をもたらす。

 光り輝くような笑顔、氷姫のときには絶対に見せない顔。

 初めて見せたその笑顔は、誠也の中に何かを刻みつけた。


「そうでしょ、そうでしょ。だって、この私が食べさせてあげたんですからね」

「そうだね、瑞希の手から食べると一段と美味しいかな」


 軽い冗談のつもりだった。

 それが真面目に返答される、という予想外の出来事が瑞希の顔を真っ赤に染め上げる。


「ば、はかっ。冗談に決まってるじゃないのっ」

「あははは、ごめん、ごめん」

「もぅ、空気ぐらい読んでよね」


 誤魔化してはいるものの心音はさらに激しくなり、隣にいる誠也にまで聞こえそう。必死に胸を押さえ込み、瑞希は音が聞こえないようにする。


 なんで自分だけ、こんな恥ずかしい思いをしないといけないのか。

 誠也はどうして平然としていられるのか。

 女性慣れしていないはずなのに、瑞希は不思議でしかたなかった。


「偽りの恋人とはいえ、僕は瑞希のこともう少し知りたいし。それに……朝言いかけてたことが気になるんだ」


 このタイミングで朝の出来事を持ち出すなんて反則レベル。

 思考回路がパンクしている状態では、まともな返事など出来るはずかない。

 言葉が生き物のように動き出し、瑞希の口から勝手に出てしまった。


「それね……。キスよ……。幼なじみとだけキスして、恋人である私とキスしてないなんて、おかしいでしょ! か、勘違いしないでね。偽りとはいえ、キスもしてないようじゃ、周りから疑われるからよ」

「えっ……」


 これにはさすがに誠也も驚きを隠せなかった。

 聞き間違い──一瞬そう思うも、脳裏に刻まれた記憶には確かにキスという言葉がある。


 本気で言っているのだろうか。

 これもさっきと同じで状態なのだろうか。

 誠也が答えを探し出していると──。


「今してよ。ねぇ、お願い、幼なじみだけじゃなくて、偽りでも恋人の私とキスしてよ」


 潤んだ瞳をゆっくり閉じ、瑞希は誠也からのキスを静かに待つ。

 もちろん、瑞希が言うキスとはアメリカ式のような頬っぺたにするもの。

 だがそれでも、恥ずかしいことには変わりがなかった。


「……分かったよ」


 覚悟を決めた誠也はゆっくりと顔を近づける。

 柔らかい──それが第一印象だった。甘くてまるでチョコレートのような感覚に襲われ、誠也の思考は完全に停止する。


「──!?」


 キスをして──確かにそうは言った。

 『どこに』というのを伝え忘れて。

 温かい感触は唇から伝わってき、瑞希は驚いて目を開ける。


 お互いの唇同士が重なっているのが瞳に映り込む。

 瑞希にとって初めてのキス。

 頬っぺたではなく唇──瑞希の思考は完全に停止し、再びその瞳をそっと閉じてしまった。

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