第9話 瑞希の偽りでない気持ち

 初めてだった……。

 あのあとひと言も喋れず、どうやって教室に戻ったのかも覚えていない。唇へのキスはまっく想定していなかったが、イヤな気分ではなかった。


 どうして? 偽りの恋人なのに唇同士のキスを嫌がらないの?

 分からない、自分の気持ちがどこにあるのか見当もつかない。

 誠也のことは嫌いではない──それが瑞希の中での答え。


 では好きなのか? もし好きだとして、その好きはどのレベルの好きなのだろう。瑞希は授業そっちのけで、その事だけをずっと考えていた。



 誠也と一緒に帰る放課後が怖い。

 どんな顔をすればいいのか分からないからだ。

 だが時間は待ってくれるはずもなく、答えが出ないままその時を迎えた。


「瑞希どうしたの? お昼休みあたりから様子が変だけど」

「ふぇっ!? だ、大丈夫、大丈夫だから……」

「とても大丈夫そうには見えないけど」


 心配そうな顔で誠也が瑞希に声をかけるも、ふたりの視線は決して交わらない。いや、正確には瑞希だけが視線を逸らしている、と言った方が正しい。


 嫌ってるから視線合わせないわけではない。

 誠也の顔をまともに見ることが出来ないだけ。

 普段と変わらない帰り道が、瑞希にとっては特別なような気がしていた。


「もしかして怒ってたりする?」

「怒ってるわけないじゃないっ」

「だってキスのあとから様子がおかしいし……」


 そのワードは今の瑞希にとっては禁句。

 頭の中に展開されるのはお昼休みでの出来事。

 ファーストキス──何度も繰り返しゆっくり流れ、瑞希の顔をあっという間に真っ赤に染めてしまう。


 誠也もわざと唇にキスをしたのではない。

 そんなことは分かりきった話で、怒る以前に自分からキスしてとお願いしたわけで。きちんと場所を伝えていなかった瑞希自身が全面的に悪い。


 とはいえ、このままだと偽りの恋人関係が壊れかねない。

 嫌いな男から言い寄られる毎日だけは回避したく、瑞希は落ち着こうと心の中で大きな深呼吸をした。


「本当になんでもないわよ」

「でも顔が赤いじゃない。熱でもあるんじゃない?」


 制止する暇などまったくなかった。

 誠也の優しそうな手が瑞希の額へと伸びていく。

 せっかく落ち着かせた心が再び乱れ始め、激しい鼓動とともに瑞希の顔がさらに赤く染まった。


 手を振り払おうにも体が言うことをきかない。

 それどころか、その手が心地よく感じてしまう。


 ダメ、このままだと自分が自分でなくなる。

 振り払いたい、心地良さを手放したくない、相反する二つの感情が瑞希の中でぶつかり合っていた。


「平気……。私は平気ですわ。誠也、明日もよろしくね?」


 僅差で勝利したのは振り払うという選択。

 半ば強引に誠也のもとを離れ、瑞希は逃げるように自宅へ足早に歩き始めた。



 あのキスから自分の感情がコントロールできない。

 部屋の片隅で蹲りながらひとり考えている瑞希。

 たかが皮膚の接触にすぎないのに、頭の中ではキスシーンが何度も再生される。


 誠也はただの虫除け程度の存在だったはず。

 それなのに──一体いつからその存在が変わってしまったのだろう。


 デートで距離が近くなったのは否定できない。が、初めて異性と出かけたから緊張と好奇心しかなかった。

 本当に……? 男嫌いなのにどうして誠也は平気なのか。それが一番の謎であり、きっとその謎を時明かせばこの不可解な行動も元に戻るはず。


 一緒に過ごす時間はどちらかと言うと楽しい方。

 楽しくて楽しくて仕方がない。そう変わったのはデートがきっかけ。

 優しい誠也の心に触れ、氷姫の仮面が徐々に剥がれ始めたから。


「私……どうしちゃったんだろ。誠也は別にタイプってわけじゃないし、それ以前に男なんめみーんな嫌いだったはずなのに……」


 変わっていく自分が怖い。

 それは誰しもが同じで、停滞こそが一番安心する。


 最近の瑞希は学校でこそ氷姫だが、誠也の前だけではその仮面が外れる。

 男な上に平凡で特に取り柄もないはずなのに、なぜか嫌悪感をまったく抱かなかった。


 なぜなんだろうか──考えられる理由が思いつかない。

 当然、好みのタイプなどあるわけもなく、誠也を選んだのは女性に興味がなさそうで、しかも愛のラブレターという切り札を持っているだけ。


 誠也と偽りの恋人関係になってからは告白されることはなくなり、平穏な学生生活を送っている。唯一の誤算は誠也が瑞希自身の心を乱すこと。


 本人はそんな気がないのは知っている。

 意識してしまうのは瑞希のみ。


 自分だけが振り回されるのに納得がいかず、瑞希はこの感覚が何を意味するのか知りたかった。


「少し前まで普通だったのに……。ただの虫除けにしか思っていなかったのに……。だけど──前原さんとキスしたって聞いたら、いても立ってもいられなくて……」


 単なる負けず嫌いというわけでなく、ましてやいらぬ噂が立つのを恐れていたわけでもない。

 なぜだか分からないが、幼なじみという存在とだけキスするのが許せなかった。


 心に巣食う黒いモヤの正体はなんなのか?

 男という存在がどうして気になるのか?

 いや、男なら誰でもというわけではなく、誠也という存在だけが気になっている。


「誠也……。アナタは一体何者なのよ。ただ女性に興味がないだけじゃないの?」


 気になりだしたら止まらない。

 誠也という男は、どういう性格でどんな趣味を持っているのだろう。

 妄想の世界で勝手に作り出し、色々なパターンを想像する。


 優しい人柄、断れない性格、自分のお願いを素直に聞いてくれる。

 そんな男が存在しているなど、瑞希が知るわけもない。誠也だけがそれを満たすのだから。


「やめよ、やめ。こんなこと考えても仕方がないじゃないの。所詮は偽りの恋人関係なんだし、深く考えるのはもうやめよ」


 頭の中を誠也が占有し始め、今までにない感情が芽生えようとする。

 そんなことは絶対に許せるはずがない。

 男嫌いで常に沈着冷静──それが瑞希という存在なのだ。


 誠也以外のことを考え気持ちを切り替えようとするも、どう頑張ったところで誠也がいなくなることはなかった。むしろ忘れようとすればするほど、誠也のことが頭の中で増えてしまう。


 もはや消すしかない。

 誠也とは偽りの恋人──そう決めつけ、瑞希は元の氷姫へと戻ろうとする。


「誠也はただの虫除けでしかないの。デートだってキスだって、すべては男を近寄らせないためにしたことなんですから」


 何度も頭の中で繰り返し自己暗示をかける。

 そうすれば必ずいつもの氷姫に戻れるはず。

 デートもキスもただの虫除け対策にすぎない。瑞希は気持ちを完全に切り替え、誠也と出会う以前の自分へと戻ろうとした。


 大丈夫、動揺なんてしていない。

 心も平静を保てている。

 明日からは氷姫として偽りの恋人を演じられる。瑞希の中で結論が出ると、安心したのか一気に全身の力が抜け落ちた。


「もう迷わないわ。誠也はただの虫除け、幼なじみとキスしていようが私には関係ない。言い訳ならいくらでも出来るし、何があっても平気なんですから」


 仮面をつけ完全に氷姫となる瑞希。

 明日からは心を乱されないはず。ただの虫除けだと、何度も自分に言い聞かせたのだから。


「えっ、どうして……。これはいったいどういうこと……?」


 すべてが元通りとなったのに、瞳からこぼれ落ちた雫が床を湿らせた。

 最初はそれが何か分からなかった。だけど、すぐにその正体が分かってしまう。


「涙……? 私、泣いているの? 誠也を虫除け扱いにしようとしただけで……」


 困惑する気持ちの中、瑞希は涙の意味を本能で知った。

 誠也のことは嫌いではない。むしろ一緒にいると安心し、心が乱されるも悪い気分ではない。どちらかというと好きに分類され、それはどの程度かと言うと──。


「そっか……。今ようやく分かったわ。私、いつの間にか誠也のことが大好きになってたんですね。他の男たちとは違う誠也が……」


 生まれて初めての恋。

 ようやく気づいた自分の本当の気持ち。

 瑞希の心は穏やかで心地いいものであった。

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