第52話 崩れ始める偽りの関係

 遅い、いくらなんでも遅すぎる。

 心配などしていない──頭では分かっていても心は正直なもの。

 冷静になろうと思えば思うほど落ち着きをなくしていく。


 もしかしたら迷子になっているのかも。それとも萌絵と何かあったのだろうか。

 不安が不安を呼び、瑞希の心は闇へと引きずり込まれていった。


「西園寺さん、落ち着きないけどどうしたの? まさか……」


 瑠香の鋭い指摘にドキッとしてしまう瑞希。

 心を見透かされいるようで動揺を隠せないでいた。


 後に続く言葉を聞くのが怖い。

 心臓が今にも破裂しそうなくらい大きな音を奏でる。

 何が飛び出してくるのか不安で仕方なく、瑞希はただ流れに身を任せる事しか出来なかった。


「トイレの我慢はよくないと思うよ?」

「ち、違うに決まってますわ。誠也よ、少し遅すぎないかしら」

「そうかなー? 私はそうは思わないけど」

「……迷子になってても困りますし、私、探してきますわ」


 脳天気な瑠香は特に気にしていない様子。

 だが、黒いモヤに心が覆われている瑞希は、いても立ってもいられず、早足で誠也達の様子を見に会場をあとにした。


 はやる気持ちを抑え、瑞希は廊下を突き進む。

 不安が上限なく膨らんでいく中、あとは突き当たりを曲がるだけであった。


「あっ、誠也、遅いから──」


 誠也が視界に入った瞬間に声をかけようとするも、言葉が口から出るのを拒んだ。

 それどころか姿を隠し、誠也の視界に入らないようにした。

 なぜなら──誠也と萌絵が抱き合っているという、受け入れ難い事実が目の前にあったからだ。


 なぜ、どうして、いつの間に……。

 知らないうちにそのうな仲になったのか。

 いや、まだ分からない、きっと何か理由があるはず。そう思った瑞希は、陰からこっそり誠也と萌絵の話を盗み聞きした。



「ち、ちょっと待ってよ、萌絵さん。いきなりそんな事言われても……」


 ようやく絞り出した言葉。

 告白されたのは初めて──以前瑠香に好きと言われたが、あれは幼なじみだからなわけで例外なはず。

 つまりこれが正真正銘の最初であり、誠也の鼓動は激しいリズムを奏でる。


 困惑するのも無理はない。

 どう返事すればいいのかすら分からない。

 もしかして冗談かも──そんな事が頭の中をよぎるも、萌絵の眼差しは真剣そのものであった。


「あたし……本気だから。それに姫とは偽りの恋人関係なんでしょ? それとも鈴木誠也は姫の事を……」


 瑞希と違って自分の気持ちにウソ偽りはない。

 想いは本物であり誰にも負けない自信がある。

 それがたとえ、推しである瑞希だとしても……。


「僕が瑞希をどう想っているか……」


 それを考えない事はなかった。

 いつまでも結論を先延ばしにし、現実から逃げているだけ。

 今度、また今度と何度逃げた事だろうか。


 嫌いではない、一緒にいると楽しい、これは分かりきっている。

 では恋愛感情はというと、これこそが今まで逃げてきた答えだ。


 今すぐに結論を出さなくてはいけないのか──正直なところ、この場で返事するのには重みが薄い気がした。

 真剣に考えなければ、萌絵だけではなく瑞希にも失礼だからだ。


「そうよ、鈴木誠也は姫が本当に好きなの?」

「それは……。ごめん、今すぐに答えは出せないよ」

「なら聞き方を変えるね。あたしの事はどう想ってるの?」


 突然のキラーパスに戸惑いを見せる誠也。

 萌絵は瑞希の親衛隊で、それ以上でもそれ以下でもないはず。

 思い返せば、最初こそ敵意むき出しだったが、時間とともにそれが薄れていったような気がする。


 誠也の中で萌絵という存在は──思いつきや軽い気持ちで答えたくない。

 先ほどの質問と同じで、熟考して答えを導き出さなければならない。

 相手が本気だからこそ、生半可な返事は出来ないのだ。


「分からない、正直言って考えた事なかったんだ。萌絵さんに告白されるまではね。でも……勘違いしないで欲しいんだ。僕に猶予を──時間をくれないかな? 真剣に萌絵さんの事を考えてみたいんだ」

「分かった。あたし、鈴木誠也が答えを出すまで待つよ。ずっと、ずっと待ってるから。だけど……その代わりにお願い聞いてくれるかな?」


 お願いというキーワードに誠也がピクリと反応する。

 無理難題を言ってくるのではと、内心ハラハラドキドキだった。

 出来る限りお願いは聞いてあげたいが、もし本当に無理なお願いなら断ろうとしていた。


「内容にもよるけど、僕が出来る範囲ならいいよ」

「大丈夫だよ、全然難しくないから」


 照れくさそうに潤んだ瞳で萌絵が見つめてくる。

 心に刻みつける可憐な表情。

 今までの萌絵とは別人のようで、誠也は心臓を鷲掴みにされた。


「そ、そうなの? それでそのお願いって何かな?」

「あのね、その……あたしと、キス、して欲しいの。ダメ、かな?」

「き、キス!?」


 その要求に誠也の声はつい大きくなってしまう。

 確かにキスなら難しいお願いではない。

 だが……そう簡単にキスをするなど、偽りの恋人や事故でもないのだから、心の準備が前もって必要。


 迷う、萌絵のお願いを聞くべきか否か……。

 悩みに悩み抜いた末、導き出した答えを優しく伝えた。


「えっと、キスはその……他のお願いに出来ないかな?」

「どうしてダメなの? もしかして姫ともしてないから?」

「瑞希とは……まぁ、したかな」

「ふぅーん、偽りの恋人とはキスしても、あたしとは出来ないんだ」


 へそを曲げつつある萌絵に困り果てる誠也。

 言い訳しようにも言葉が浮かぶはずかない。

 諦めるしかないのか──そう思い始めた時、萌絵がさらなる追い討ちをかけてきた。


「それじゃ前原さんとはキスした事ある?」

「あれはキスというか──」

「あるんだ……。あたしはダメで、偽りの恋人や幼なじみはいいんだ」


 完全に逃げ道を塞がれた。

 ここで萌絵とのキスを拒みでもしたら、差別していると思われるに違いない。

 好意があるかは別として、瑞希と瑠香とだけキスというのはやはり不公平。


 キス……互いの唇が触れるだけ。

 ただそれだけの話で、失礼かもしれないが皮膚と皮膚が接触するのと同じ。

 頭の中で何度もそう言い聞かせ、誠也は心音が跳ね上がる中、萌絵に自分が出した結論を伝えようとした。


「そうじゃないよ。萌絵さんの気持ちもちゃんと理解してるよ。だからその……キスはするけど、ふたりだけの秘密にしてくれないかな?」

「うん、ふたりだけの秘密ねっ」


 急に機嫌がよくなったようで、萌絵は満面の笑みを浮かべる。

 この瞬間ほど緊張するものはない。

 お互いの鼓動が聞こえるほど高鳴り、誠也は周囲に人がいないか確認する。


 誰もいないはず──そう確信すると、目の前にいた萌絵は瞳を閉じてキスを待っていた。

 緊張がピークに達する中、誠也はゆっくりと顔を近づける。


 静寂が支配する空間で、聞こえるのは萌絵の吐息だけ。

 一瞬でない時間の間お互いの唇が重なり合い、とろけるような甘い匂いが誠也から理性を奪い去る。


 瑞希や瑠香とは違う唇の柔らかさ。

 何もかも忘れてしまうほど心地よいもので、その身を流れに任せ誠也と萌絵は本当のキスを交わした。一方通行の気持ちではあるが、このキスだけは両者の心が繋がっていた。

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