第22話 プールといえば鉢合わせが基本

 恋人と言われて嬉しかった。

 たとえナンパ男を遠ざけるためであったとしても、瑞希にとってその言葉は特別に聞こえた。


「冷たくて美味しいー」

「今日は一段と暑いからねー」

「うん、これ飲み終わったら練習の続きをお願いね?」


 冷静にお願いしているが実はそうではない。

 僕の恋人──その言葉が頭の中を駆け巡り、少しでも油断するともう一人の瑞希が出てきそうなくらい。


 嬉しさが止まらなかった。

 天にも登りそうな気持ちとなり、泳ぎの練習にも気合いが入る。


「なんか急にやる気が出てきたよね」

「えっ、さ、最初からやる気があったに決まってるじゃないの」

「僕にはそう見えなかったけどねぇ」


 誠也が放った言葉がやる気を与えてくれた。などとは言えるはずもなく、あたかも最初からやる気満々であったように見せかける。


 もちろん誠也にウソだと見抜かれるのは百も承知。

 それでも本当のことを素直に伝えるよりはマシ。

 もし瑞希が素直に伝えていたら──きっと正常でいられなくであろう。


 いつか、そう遠くないいつかでいい、自分の心は誠也のモノだと気づいてくれるのは……。


「バタ足からでしたわよね。ちゃんと……私を捕まえておいてね」


 水しぶきをあげて飛び込む姿は、先ほどの瑞希とは別人のよう。怖がる様子などまったく見せず、誠也に手を振る余裕まである。


 理由はともあれ、成長しているのが嬉しく、誠也の口元には笑みが浮かんでいた。


「僕が引っ張るから、瑞希はバタ足を頑張ってね」

「任せてよねっ」


 気合い十分で誠也の掴み、必死にバタ足をする瑞希。

 水への恐怖を完全に克服したようで、何度も水に顔をつけている。

 いや、それは正確ではないかもしれない。正しくは恐怖より嬉しさが勝っているからだ。


 誠也がいるから恐怖にも立ち向かえる。

 どんなピンチが訪れようと必ず助けてくれる。

 男嫌いは変わっていないが、誠也だけは瑞希にとって特別な存在であった。


「だいぶ上達したんじゃないかな」

「そうかな、誠也が言うんだからきっとそうね」

「今度はひとりで泳いでみる? もちろん、僕は傍にいるからさ」


 不安がないと言えばウソになる。

 だが誠也がいてくれる──その言葉さえあれば、勇気が湧いてひとりで泳げると思い始めた。


 信じるだけ、あの優しい誠也が無茶なことを言うはずがない。

 だからこそ一歩を踏み出そうとした。


「うん、誠也を信じてるからね」


 誠也が見守る中、瑞希は自らの意思で泳ぎだした。

 不思議な感覚、今までどうして泳げなかったのか分からない。

 まるで体が魚になったように軽くなり、水の中を自由に動き回る。


 気持ちがいい──泳げるとこうも景色が違うものなのか。

 達成感に満たされ、瑞希は今幸福の絶頂にいた。


「ぷはぁー、ねぇ、誠也見てた? 私、ちゃんと泳げてたよ」

「うん、凄いじゃないか瑞希」


 褒められると嬉しさが倍増するもの。

 嬉しくて、嬉しくて仕方がなく、その気持ちを抑えられるわけがない。


 この気持ちを誰かと分かち合いたい。

 もう誰にも止められない、分かち合うならあの人だと思い、瑞希は無邪気な表情で想い人に抱きついてしまう。


「ち、ちょっと瑞希、いきなり何を……」


 瑞希の大胆な行動に慌てる誠也。

 確かに感じるのは柔らかい感触。

 しかもふたりの間にあるのは、今は水着という薄い生地のみ。

 涼んでいた体が急に熱くなり、誠也の顔は赤一色に染まった。


 これも演技なのか──分からない、瑞希の行動が理解できない。

 思考が完全停止し、何も考えられずその場で固まっていた。


「えっ、何って……。──!? こ、こ、これは、あの、うん、そうよ、誰が見てるか分からないから、恋人らしいことをしようとしただけなんだから」


 動揺してるのは誠也だけではなかった。

 あまりの嬉しさに無意識に抱きついてしまい、瑞希自身も恥ずかしさで顔が真っ赤に染まっていく。


 ふたりだけの空間が作られ、その場所だけ時間が停止する。

 抱き合ったままで離れようとはせず、聞こえるのは周囲の雑音だけ。

 お互いを見つめ合うこと数秒、ようやく現状を理解した瑞希が、誠也から離れようとつい突き飛ばしてしまった。


「瑞希、今度はどうして僕を──。あっ、ごめんなさい」

「いえいえ、大丈夫ですよ、って、誠也!?」


 この出会いは偶然──たまたま親友とプールに来ていた瑠香と鉢合わせ。

 運命のイタズラとも言えるこの状況に、あからさまに不機嫌そうな顔をする者がいた。


「あら、誰かと思いましたら前原さんじゃないの」

「これはこれは西園寺さん、学校以外で会うとは思ってなかったよ」


 ふたりとも笑顔で話すも、火花を散らし周囲の温度を上昇させる。

 因縁の出会いとはこのことで、誠也に対する想いがぶつかり合う。


 お互い一歩も譲る気は毛頭ない。

 ここで誠也と会ったのをチャンスと考える瑠香、この場から一秒でも早く立ち去りたいと思う瑞希。

 均衡状態が続く中、この張り詰めた空気を壊す者が現れた。


「瑠香って、やっぱり瑞希と仲良かったんだね。前に話を聞いてから思ってたんだ」

「え、えっと……」


 誠也の見事な勘違いが瑠香を絶句させる。

 斜め上を行く解釈は予想外すぎで、瑞希までもがその場で石化してしまう。


「あと四ノ宮さんでしたっけ? せっかく会えたんだし4人で遊ばない?」


 その言葉は瑞希にとって禁句。

 石化が一瞬で解けた途端に、嫌悪感丸出しの顔となる。

 これではせっかくのデートが台無し。怒りが込み上げてくるのは当たり前だ。


 どうして私だけを見てくれないの。

 誠也の隣は自分だけのものなに。

 いや、他の女と話す誠也なんて見たくない。


 しかしここでへそを曲げて嫌われるのは絶対にイヤ。

 結局怒りを心の内側に閉じ込め、誠也の意見に従うしかなかった。


「そうね、それもいいですわね。それでしたら……あのウォータースライダーとかやってみません?」

「あれって二人乗りだよね?」

「もちろん誠也は私と乗るに決まってるわよね?」


 閉じ込めた怒りが漏れたのか、妙な威圧感で誠也に問いかける。

 幼なじみなんかには負けたくない──その想いが強く込められていた。


「ここは学校じゃないから、誠也は幼なじみの私と一緒に決まってるじゃない」


 瑠香も負けずと瑞希に張り合いをみせる。

 せっかくのチャンスを無駄にしたくない。これはきっと、運命の赤い糸で結ばれていると思っていたからだ。


「それなら誠也に選んでもらいましょうか」

「どうせ幼なじみである私を選ぶに決まってるけどね」


 まさかのキラーパスに、誠也から冷たい汗が流れ落ちる。

 どちらを選んでも地獄──偽りの恋人か、本物の幼なじみか、ここで正しい選択をしなければ、修羅場になるのは間違いない。


 悩む、今までで一番悩み抜いた末に出した答えとは──。


「ここは瑞希と一緒に乗るよ。だって恋人同士だからね」


 偽りだろうと瑞希とは恋人同士。

 今は沙織もいるわけで、恋人を選ばないのは不自然に思われる。

 そう、これは偽りの恋人を演じ続けるため……。そのために選択したのだが、瑞希の泣き顔が頭に浮かんだからでもあった。


「そんな……。き、今日のところは引き下がるけど、次は覚えておいてよねっ」

「何度でも返り討ちにしてあげるわよ」


 瑞希から不機嫌さは完全に消え去り、見せつけるように誠也とベッタリする。そして極めつけは、誠也の見ていないところで……。


 ──あっかんべー。


 絶対に誠也を渡さないと言わんばかりに、子供じみた仕草で挑発していた。

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