第28話 それが言えなかったこと
「リゼス!」
そう声を上げて、駆け出すシーリの背中をリノは信じられないと言った様子で見る。まず考えたのは、頭がおかしくなってしまったのではないかというものだった。だが普通に考えれば誰でもまずそう考えるだろう。
リノはこぶしを握り締める。もし、本当に錯乱してしまったならば、彼女を止めなければあの人喰いに殺されてしまう。
「シーリ!」
そう考えればリノも駆け出し手を伸ばす。
だが次の瞬間、リノは再び信じられない光景を目にすることとなった。
『グルル』
人喰いが喉を鳴らして、シーリに跪いたのだ。
「……え?」
リノは伸ばした手を下ろすことも忘れるほどの衝撃が走り抜けていた。それは、騎士として多くの人喰いを目にしてきている彼女からしたら全く信じられない光景。
人喰いとはその名の通り、人を喰らう化け物だ。人には決して慣れず、人を食料としか見ることのないそれが、あのようにペットが飼い主に服従するようなしぐさを見せることは歴史上あり得なかった。
そこまで考えて、リノは「まさか」と呟く。そして、自分でも信じられない考えを口に出す。
「シーリ、まさか――リゼス……なの……?」
恐る恐る紡いだ言葉に、リノは自分で発したにもかかわらず戦慄する。無理もない。人喰いは人間とは違う種族、決して人間ではないのだから。
ピクリとオオカミを連想させる人狼の耳が声に反応し、リノへと顔を向ける。リノは咄嗟に戦闘態勢を取るが、ソレはすぐに解除される。
なぜならば、その獣の目は恐ろしく澄んでいたから。感情なんて浮かんでいるはずのない無機質なサファイア色の瞳にははっきりとした理性が浮かんでいる。まるで、“”そうだと言うように。
「そうです。彼女はリゼスです」
人狼の首筋を愛おし気に撫でながら、シーリはリノに衝撃を落とす。すると、人狼の体から煙が噴き出し、そこから人間の姿となったリゼスが姿を現す。リゼスは一瞬、無くなったはずの腕が元踊りとなっていることに驚くが、すぐにリノへと視線を戻す。
「リノ様……」
申し訳なさそうな表情を浮かべ、リゼスはリノを見る。リノはそんな彼女の瞳に“怯え”が浮かんでいることに気が付くと、小さく息を吐く。
その反応に、リゼスはびくりと肩を跳ねさせ、その瞳に絶望を浮かべる。きっと失望された。化け物が人間のふりをしていたのかと罵られるのだとリゼスは思った。
だが、いつまで経ってもリノから罵詈雑言が飛んでくることはなかった。
「リゼス」
「――っ!?」
おもむろに近づいたリノはリゼスの体を抱きしめる。咄嗟にリゼスは逃げようとするが、リノは許さない。グッと腕に力を入れてその体を強く抱く。
リノの体温にリゼスの心臓がどうしようもないほどに締め付けられる。痛いのにどこまでも温かくて心地よいそれにずっとと願ってしまいそうになる。
「リノさまっ!?」
「ねぇ、貴女が言いにくそうにしていたことってこれのこと?」
するりと鼓膜を揺らす声。その声が酷く悲し気なことに気付いたリゼスは気まずそうに目を伏せる。
「……はい」
「そっか」
本当はもう少し力の制御ができたら伝えるつもりでした。そう言い訳染みたことをリゼスが口に出そうとすると、リノはそっとリゼスの口に人差し指を当てて言葉を紡がせない。
ああ、失望されたんだ。リゼスがそう考え悲しみに落ちていこうとすると、察したようにリノは「違う」と言葉を続けた。
「怒ってなんかないし、隠していたことに失望もしてない。だって、貴女たちは打ち明けようと一瞬でも考えてくれたんでしょう?」
その問いかけにリゼスとシーリの二人はコクリと頷く。リノはその反応に満足げに頷き返すと、
「だから許すわ」
そう言って穏やかに微笑む。二人は呆気に取られたようにリノを見つめる。すると、リノは二人の表情を見て心外だと言うように口を尖らせた。そして、リゼスの両肩を掴んでまっすぐにリノは見つめる。そのダークブルーの瞳は穏やかな色に満ちている。
「あのねぇ、これでも結構、二人のこと好きだし信頼してるの。だから、すぐに話してくれなかったのはちょっと仲間外れみたいで寂しかったけれど、それでも
そのまっすぐな言葉にリゼスは大きく目を見開く。そしてやがて、ぽたぽたと静かにその瞳から涙を流す。
彼女に打ち明けても離れてはいかないかもしれないという希望はあった。それでも、実際に知られた時はきっと離れていってしまうという不安に塗り潰されてしまっていた。けれど、彼女は離れないと言ってくれた。
リゼスの力を“ちょっと変身できるぐらい”なんて何でもないように言ってくれた。それがリゼスの心にどうしようもないほどの温かさを落としていく。
――ああ、こんなにも温かい人に囲まれてなんて幸せなのだろうか。
リゼスの脳裏に育ての親であり、命の恩人である二人の笑顔が浮かぶ。次、あの二人に会えたならば、自分が出会った温かい人たちのことを話そう。そう思った。
「ちょっと、泣かないでよ」
「リノ様……ありがとう、ございます……っ」
嗚咽交じりの声。リノはまるで泣いている妹を慰める姉のような優しい手つきで、彼女の頭をそっと撫でる。シーリはそんな二人の様子を眺めながら胸の内で安堵の息を漏らす。
シーリもリノが人狼のことを知ったらどうなってしまうのか不安だったのだ。もし、リノが離れていってしまったら、リゼスが心に大きな傷を負ってしまうことは明白だった。だから、言いだす決心がつかなかった。
予想外のことではあったが、このような結果で終わってよかったと安心する。これで、リゼスの心の負担が一つ減ったのだから。
「――わっ! ちょ、リゼス!?」
リノが突然声を上げる。思考の海を泳いでいたシーリはさっと現実へと意識を戻すと、リノの体にもたれかかるようにして目を瞑るリゼスを見るなり顔色を変えて彼女へと近づく。
「リゼス!」
名を呼び焦燥を浮かべたシーリは彼女の顔を覗き込。そして、彼女の少し開いた口から規則正しい寝息が零れていることに気が付くと、フッと両肩の力を抜いてリノを見た。
「眠ってしまったみたいです」
「ほっ、よかった」
リノは安堵の息を吐いてから、リゼスの髪をそっと、梳くように撫でる。そして、魔法で作った椅子にリゼスを座らせる。同時に応援を呼ぶ魔法の鳥を空へと放った。
フッと息を吐いたリノがクルリと体をシーリへと向ける。
「シーリ、詳しいこと話してもらおうかしら?」
剣呑な空気をピタリと体に張り付けたリノは、ダークブルーの瞳を鋭くさせてシーリを見据える。
「ええ、全て私が分かっていること全てお話します」
「……じゃあ、人狼って言うんだっけ? それが何なのかっていうのは全くわかってないのね?」
「はい」
全てを聞き終えたリノは両腕を組んで渋い色を浮かべる。人狼なんていう力も驚きだが、二人が結んだ禁術にも驚きを隠せなかった。魔法を得意とする者であれば、禁術という存在がどれほど重要な意味を含んでいるか知っているからだ。
すぅすぅと気持ちよさそうに眠るリゼスを一瞥したリノは、いつの間にか過酷な運命に放り込まれている彼女に同情の念を向ける。
「それで、その人狼の力はとりあえず使える感じなの?」
「私と二人の時のみですが実戦は何度か行い、私の指示には従って動けるということだけしか」
シーリはライズと共に行う訓練を思い浮かべる。具体的な指示を出さなければ、基本的に主であるシーリ以外の生き物に攻撃をする傾向がかなり強い。実践では二人以外の人間がいない場面のみであるために、他人がいた場合にどうなるかは現状不明である。
「本当になにもわからない状態なのね。でも、かなり危険な強さを持ってるわよね。人喰い基準で考えたら、サファイア色の瞳がルビーに圧勝なんて普通は考えられないわ」
通常、人喰い同士の戦いの場合において自分よりも上位の人喰いに勝つことは不可能とされている。それは単純に戦闘力が違い過ぎるためだ。なので、人喰い基準で考えればサファイアの瞳を持つ人狼が勝てるはずがないのだ。
「魔法は使えるの?」
「使えないと思います。ただ、初めて力を使った時はルビーなどが使う“咆哮”を使用していました。ですが、現在は使えないようで訓練では一度も成功したことはありません」
「そう……」
顎に手を当てて、人狼の力のこれからを考える。おそらくではあるが、使い続ければきっともっと強くなるであろう。完全にその力を使いこなせるのであれば人々を守るのに大いに役立つに違いない。
「……決めた。ねぇ、シーリ」
「はい? なんでしょう」
「人狼の研究、私も混ざっていい?」
コテンと首をかしげるリノ。その所作は見る者を引き付ける妖艶な色がうっすらと浮かぶ。だが、シーリは長年の付き合いから彼女が、人狼という未知に心奪われ解明したいという欲求に囚われていることに気が付くだろう。
彼女の力があればおそらく、人狼の力の解明は飛躍的に進むだろう。断る理由は一つもない。だがそれでも、シーリは自分の一存だけでは首を縦に振ることができないので、
「リゼスが起きたら聞いてみましょうか」
と、答えた。
やってきた騎士たちに後始末を任せ、一足早く騎士団へと戻ってきたシーリたち。リノはジョニーが魔法薬を持ち出したことを知ると、怒りの形相で団長室へと向かっていた。おそらく今頃、ライズにジョニーのことについていろいろと言っているころだろう。
シーリも一緒に行ってジョニーの処罰を進言しようと思っていたが、そんなことよりも優先するべきことがあった。それは、ぐっすりと眠るリゼスを部屋へ運ぶという大切な任務だ。
「やはり、力を使うと体力を消耗するようだ」
シーリは自分の腕の中で気持ちよさそうに眠るリゼスを見下ろしながら小さく呟く。訓練が終わった後も酷く疲れているような様子を見せることがあったので、やはり人狼化にはかなり体力を使うのだろう。
ならば、早めにベッドに寝かせてあげるべきだろう。そう考えながらシーリは足早に部屋へと向かった。
「さすがに泥だらけで寝かせるのも忍びないか」
部屋へと到着するなり、リゼスをベッドに寝かせようとしたシーリは、彼女の体にこびりついた泥とボロボロの服を見てとどまる。このままでは快適な睡眠はとれないだろう。それに、左腕の袖が無くなっているのも気になっていた。
「傷の確認もした方がいいか」
だから、服を脱がすのだと。そう自分に言い聞かせ、シーリはリゼスの服に手をかけ――
「んぅ……あれ? シーリ、さま?」
うっすらとリゼスが目を開ける。まさか起きると思っていなかったシーリは彼女の服に手をかけたまま硬直してしまう。
リゼスは目を何度かぱちぱちとさせると、シーリの顔と彼女の手を交互に見る。その顔は徐々にであるが赤く染まり始めている。
「えっと、シーリ、さま……? なにを、して……」
「……傷の確認をしようと。あとは、汚れていたので着替えさせようと思いまして」
そう言いながらシーリはリゼスの服を脱がし始める。てっきり、やめると思っていたリゼスは「え!?」と声を上げて再び彼女の手元と顔を交互に見やる。
「えっと、シーリ様? その、脱がしていただかなくても自分で着替えられますから」
「なにを言っているんですか。リゼスは疲れているんですから私に任せてください」
「い、いやいや! そんな、悪いですよ!」
リゼスは恥ずかしさと恐れ多さからシーリから逃げようとベッドから飛び降りるが、疲労困憊の体は急な動きに耐えきれず、すぐにふらりと床にへたり込んでしまう。シーリは“言わんこっちゃない”と言いたげに片膝をつくと、リゼスの頬に手を伸ばす。
ゆっくりと滑るシーリの指先から熱が伝わる。リゼスは声にならない声を上げる。その心臓はバクバクと早鐘を打ち、体温を急上昇させていく。
「リゼス、いい子ですから私に身を委ねてくれますか?」
「う……っ」
「リゼス」
シーリが顔を覗き込む。アクアブルーの瞳がギラリとリゼスの顔を映す。ただ普通に名前を呼ばれただけのはずなのに、リゼスは彼女の声がいつもと違って熱を持っているような感じがして、グッと息を呑む。
「リゼス」
もう一度、シーリは名前を呼ぶ。その声にははっきりとした熱が浮かんでいる。
「……シーリ、さま……っ」
「……ふふ」
「シーリ様?」
シーリの両肩が小さく揺れている。リゼスはまさかと勘付く。そして、「まさか」とムッと目を向けた。するとやはりと言うべきか、とうとうシーリは声を上げて笑い出す。
「あはははっ。リゼスったら、顔真っ赤ですよ」
「シーリ様、酷いです。こんな意地悪するなんて……」
じとりと目を向けながらも、リゼスはシーリが見せる珍しい笑顔に毒気を抜かれてしまっていた。
「ふふふ、すみません。リゼスがあまりにも可愛かったので思わず魔が差してしまいました」
「なぁっ!? か、かわいいだなんて……っ」
不意の一撃に赤みが引きかけていたリゼスの顔に再び熱が集まる。
「な、なにを言っているんですか!」
顔を真っ赤にして声を荒げるリゼスを、シーリは楽しそうに見つめる。
「くく、ごめんなさい。……さて、傷はなさそうですが、やはり泥は落とした方がよさそうですね」
「え?」
いつのまにか、傷を確認し終えたシーリはリゼスの服を正す。
「動けますか? お風呂で体を洗ってから休みましょうか」
「そうですね。少し眠ったおかげで動けそうなので、行きたいです」
リゼスは少しよろけながら立ち上がると、部屋を出ていく。一歩遅れて立ち上がったシーリはリゼスの頬に触れていた指先を一瞥すると呟く。
「本当に、可愛い人だな」
そう小さく笑みを浮かべたシーリは、リゼスの後を追って部屋を後にした。
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