第40話 貴女の中で見てきた
片膝をついて大量の血液を流すそのケモノへと、今まさに止めを刺そうとしていたシーリの振り上げた剣がピタリと停止する。そして、信じられないと言った様子で、ケモノを見下ろす。
エメラルド色の片目がシーリの姿を映す。シーリは小さく生唾を呑む。その脳裏に浮かぶは“ありえない”の一言。でも、リゼスという存在が“もしかしたら”という考えを抱かせる。
動きの止まった彼女を見て、ヤゴンはニヤリと笑みを見せる。そして煽るように言葉を続けた。
「正体知ったら殺せないよなぁ」
「……っ」
ドクリ、ドクリと心臓が大きく鼓動を打つ。呼吸が苦しくなって、剣を振り上げたままシーリは浅い呼吸を繰り返す。
そんなとき、背後でリゼスが叫んだ。
「シーリ様!」
シーリがその鬼気迫る声に嫌な予感が脳裏をよぎる。だが、弾かれるように振り返ろうとした彼女よりも早く――ケモノは彼女の腹部へと槍のように揃えた右手を突き刺していた。
「……なっ!? ぐ、あ……っ」
痛みよりも先にマグマでも押し付けられたかのような熱が腹部を起点に鈍く広がっていく。ゆるゆると、シーリが後退すると、ケモノは乱雑に腹部へと突き刺していた右手を引き抜く。
次の瞬間、鮮血が傷口から噴き出し、シーリはたまらずその場に両膝をつき崩れ落ちていく。誰がどう見ても致命傷である。
「シーリ様! きさまぁぁぁぁぁッ!」
とてつもないほどの激情に心臓を握り潰されたリゼスは反射的に駆け出すと、ケモノめがけて剣を振り下ろした。魔力も纏っていないただの剣で放たれたその一撃はケモノの毛皮を引き裂くことはできなかったが、その衝撃でその巨体を吹き飛ばす。
ゴロゴロと転がっていくケモノを一瞥したリゼスは鬼のような表情を一転させ、強い焦燥を浮かべてシーリの体を抱き上げた。そこへリノも駆け寄る。
「シーリ様! シーリ様!」
「シーリ!」
二人がシーリに寄り添う光景を見ていたヤゴンは“もうすぐシーリは死ぬな”と確信すると、もう用はないと言いたげに踵を返す。シーリさえ殺せばこの騎士団は手に入れたも同然だ。それに、あの怪物をリノとリゼス如きでは倒せないと確信している。あの二人もここで終わりだと彼はほくそ笑む。
「おい、待てよ」
その場を後にしようとするヤゴンへと鋭く声を飛ばしたリゼスは、シーリをリノへと預け、ゆっくりと立ち上がった。そのグレー色の瞳には獄炎のようなものをちらつかせている。
心臓がギリギリと握り潰されるような痛みに呼吸が苦しくなる。血液がまるで炎にでもなったかのように血管を焼き尽くしていくような痛みが彼女の体を駆け巡る。それが途方もないほどの怒りが引き起こしたものだと考えなくとも彼女は理解する。
「逃がさないぞ」
ギリギリと痛む胸を抑えながら、リゼスはもう片方の手で首に下げたペンダントの紐を引きちぎり、それを強く握りしめた。その手は怒りによって震えていた。
「お前はここデ殺す。ズタズタに引き裂いてコロシテヤル」
――コロセ、ヒキサケ。ズタズタニシテヤリタイ。タイセツナトウトウキヒトヲキズツケタ。
リゼスを支配するは強烈な殺意。普段であればきっとその衝動を抑え込むことができたであろう。だが、今の彼女ではその衝動を抑えることはできない。むしろ、積極的にその衝動を受け入れていた。
そんな彼女の異変に気付いたリノ。だが、命の灯が消えかけているシーリから離れることができない彼女は「リゼス!」と名を叫ぶことしかできない。
「殺す。引き裂いて、ズタズタに噛ミ千切ってヤる」
「はっ、やれるもんならやってみろよ! だが、できるか?」
ヤゴンが嘲笑った時、彼を庇うようにケモノがのそりと姿を現す。エメラルド色の瞳を殺意にきらめかせ、グルルと地の底から響くような音を鳴らす。
「俺を殺したきゃ、まずシーリの父親を殺さなきゃならないんだからな!」
「下衆が……!」
勝ち誇ったような彼をリノは吐き捨てる。だが、リゼスの表情は変わらない。
「殺せるさ。なんせ、その人は殺してくれって願っているんだから」
そう言った彼女はチラリと振り向く。そして、意識朦朧と言った様子のシーリを申し訳なさそうに一瞥すると、手に持ったペンダントを掲げ――自分の胸へと突き刺した。
『――ォォォオオオオオオオオオオッ!』
人狼の姿となったリゼスは両腕を広げ雄たけびを上げると、すかさずケモノへと飛び掛かり地面へと押し倒した。そのまま人狼はケモノの首を両手で締め上げる。が、ケモノは人狼の両腕を掴むと、そのまま強靭な力でへし折る。
骨の砕ける音が響き、力が緩んだすきにケモノは人狼を投げ飛ばすと、反撃を始める。まず、起き上がろうとした人狼の胸を踏みつけ頭部を掴み、地面へと叩き付けた。
何度も、何度も、何度も。地面が陥没するほどの強さで何度も打ち付けられた人狼。どうにか抜け出そうとするものの、ケモノの力が人狼をはるかに上回っているために振りほどくことはできない。
「ははっ! やはりな! やはり先ほどまでは本調子じゃなかったか! どうだこれが、ソイツの本来の強さなんだ! どんな英雄であろうとコイツには勝てないんだよ!」
リノはシーリの治療のため動けない。最初こそうめき声をあげて抵抗していた人狼の声も小さくなり、抵抗が弱まっていく。ケモノは掴んでいた手を放すと、ぐったりとしている人狼を見下ろし両手をハンマーのようにして掲げる。
「リゼス! 逃げて!」
「動けねぇよ。もう終わりだ。呆気ねぇ最後だな」
ケモノが人狼の頭部目掛けて振り下ろす。
「リゼスゥゥゥゥゥゥゥッ!」
グチャリという音と骨が砕ける音が響く。人狼の頭部は潰れたトマトのように真っ赤な花を咲かせ、両手足が痙攣し、やがてぐったりと力を無くす。誰がどう見ても生きているとは思えない状況に、リノは悲痛の叫びをあげる。
「リゼス! イヤ、そんな……! イヤよ!」
「だっはははは! いやぁ呆気ねぇな、おい! 威勢よく飛び出して瞬殺されちゃあ、意味ねぇな。大人しく雑用係のままだったらこんな死に方しなかったのにな」
ケモノがゆっくりと立ち上がり、動かなくなった人狼を見下ろす。そのエメラルド色の瞳から一粒の雫が流れ落ち、ソレは人狼の胸へと落ちて消えていく。そして、ソレはリノへと顔を向けた。
「よし、リノを殺せ! それでここは完全に終わるんだ!」
ヤゴンが高らかに笑う。リノは歯を食いしばる。
「リゼス……!」
彼女はまだ死んでない。絶対にまた立ち上がってみせる。 リノは懐から水晶を取り出す。それは、シーリの魔力が大量に入っている。
「リゼス、立ち上がりなさい。ライズを……私の大切な友達をもう休ませてあげて」
そう苦しげに言葉を紡いだ彼女は、その水晶を人狼へと投げた。パリンという軽い音と共に充填された魔力が人狼の体を覆った。
その時、ピクリと人狼の右手の指先が動いた。
リゼスが目を開くと、そこはいつの日にか夢で見た美しい湖があった。泣きたくなるほどに懐かしくて暖かい風が頬を撫でていく。ずっとここにいられたらいいのにと思わず思ってしまった彼女は振り払うように首を振る。ダメだ、ここにいてはいけない。
――だけど、ここを出たらどこに行けばいいんだ?
そんな不安に駆られた時だった、不意に人の気配を感じたリゼスがハッと湖を見ると、湖近くにあるベンチに誰かが座っているのが見て取れた。それは、ぼろぼろの鎧を纏った、いつに日にか夢に見た少女の後姿だった。
リゼスはまるで呼ばれたかのように、彼女の元へと向かっていた。
「こんにちは、リゼス」
ベンチに座ったままの少女がリゼスの方へと顔を向け、小さく微笑む。その顔には以前のように傷だらけではあったものの、すでに傷跡となっており血が流れているということはなかった。そして、どこまでも穏やかな雰囲気を纏った少女に、リゼスはぎこちなく「こ、こんにちは」と返す。
そうすれば、少女は優しくクスリと笑って、自分の隣を叩く。リゼスは逡巡した後、恐る恐るできるだけ距離を開けて腰を下ろした。少女が僅かに眉尻を下げる。
「……貴女は誰なの?」
「シグネと申します。リゼスが使っている人狼の力の持ち主って言えば伝わるでしょうか」
「えっ」
ひゅっとリゼスが息を呑む。
「持ち主って……」
「そのままの意味です。リゼス、貴女が今使っている力は、もともと私が使っていました」
一呼吸おいてシグネは言葉を続ける。
「……リゼス、今私がここうして君と話すことができるのは、人狼の力が強まっているからです。そして、私はこれ以上、貴女が力を使わないように止めるために来たのです」
シグネの瞳がリゼスを射抜く。少女とは思えないほどに鋭いその視線は彼女が、凄まじい経験をしてきたと思わせるには十分。リゼスは声も出せず、まるで金縛りにでもあったかのように瞬きすらできなかった。
「リゼス、これ以上力を使ってはいけない。貴女が貴女でなくなってしまう」
「で、でも……まだ、変身できるって……言われ――」
「それは肉体の話。貴女の精神は今、消えかけているのです」
「なっ、え、なにを、言って……」
リゼスは思わず自分の手を見た。だが、消えているということはない。シグネは悲し気に苦笑を浮かべると「今はまだ大丈夫」と言って言葉を続けた。
「でもいずれ、リゼスと私……そして人狼の意志がすべて混ざり合ってしまう。そうなれば、人を喰らう化け物になってしまう。そうはなりたくありませんよね」
「……なんで、私は……この力を持っているの……?」
いきなり自分が消えると言われても理解できない。リゼスは自分の胸に手を当てながら吐き出すようにそう問いかけていた。シグネはそんな彼女を静かに見つめたまま、小さく「ごめんなさい」と零す。
「貴女がそうなってしまったのは全て、私のせいです……貴女の村が人喰いに襲われた時のことは聞いていますか?」
「うん。それで、死にかけていたところをオルガ姉さんが助けてくれたって」
オルガという言葉にシグネは懐かしそうに瞳を細め、頷く。
「その時の人喰いが私でした」
「え……?」
目を瞬かせリゼスはシグネを見る。その表情は今にも泣きそうに歪んでいる。それを見てしまったリゼスは咄嗟に浮かんだ怒りを飲み込まざるを得なかった。
「自我を失っていた私はたくさんの人を殺してしまった。そして、貴女の村を襲い、貴女を殺そうとしたときに……あの人が来てくれた。あの人のおかげで一時的に自我を取り戻した私は……」
グッと唇をかみしめたシグネは、深く息を吐き出すと――
「当時の貴女は心臓の半分を失っていた。だから……貴女を助けるために私の心臓の半分をあなたの心臓とつなぎ合わせてもらったのです」
叩き付けられる事実にリゼスは言葉を失ってしまう。唐突に訪れた自分の力の正体。それを知りたいとは思っていた。思っていたが、そんな出来事の末に手に入ったものだと知った彼女はどうすればいいかわからなかった。
「ごめんなさい……全部、全部私のせいです。私がいなければ、貴女は今もあの村できっと暮らせていたのに……私が全て奪ってしまった……っ」
そう懺悔するシグネの瞳からぽたぽたと涙が零れ落ちる。リゼスはその涙を見た瞬間、気付けば彼女の体を抱き寄せていた。
「シグネ、ありがとう」
「なにを、言って……私がいなければ、貴女はそんな体にはならなかったのですよ!」
「確かに、あの出来事がなければ私はきっと村で暮らしていた。それはそれで幸せなんだと思う。今の生活は確かに辛いことがたくさんある、あるけれど……それ以上にたくさんの幸せに出会えたんだ」
噛みしめるように紡がれる言葉にシグネはただじっと聞き入る。
「たくさんの人と出会った。悪い人もいい人もたくさんいた。それになによりも幸運だと思ったのはシーリ様に出会えたことなんだ。あの方に出会えなかったら今の私はいない。それぐらいに大切な人なんだ」
「リゼス……」
「だから、ありがとう。たとえ、シグネが招いてしまったことだとしても、私はこの出会いに感謝しているから」
心底幸せそうに紡がれた言葉にシグネは呆気に取られたのち、安堵の笑み浮かべる。が、すぐに沈痛の色を浮かべてしまう。
「なら余計に私は貴女を止めなければいけません。このまま力が強まれば、私たちの心臓は混ざり合って一つになってしまう。そうなればきっと、貴女という存在は消えてしまうから……!」
「それでもかまわない」
間髪入れずに答えるリゼスに、シグネは眉を顰める。無理もない。幸せだと言ったのに、それを捨てようとしているのだから。
「たとえ、自分が消えてしまっても――シーリ様の傍にいたいから」
その言葉は何よりも力強く、彼女に何を言ってもその強固な思いが変わることはないだろうとシグネはかつての自分を見ているような気分に陥り、呆れたように息を吐く。
「いつの時代も、誰かを強く思う人っていうのは頑固な人ばかりですね。……リゼス」
シグネがリゼスの額に自身の額を当てる。至近距離でリゼスを見つめた彼女は、
「貴女に全部託します。だから、貴女は常にその大切な人の傍にいたいと強く願いなさい」
優しい声が鼓膜を撫でる。すると突然、強い眠気がリゼスを襲う。それは、抗う間もなく、彼女の意識を奪い去る。
「リゼス、どうか自分を強く持って。憎しみに囚われず、ただ大切なその人を強く思っていて」
薄れゆく意識の中、そんな声が聞こえたような気がした。
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