第41話 暗い世界の中で聞こえた声


 水晶に込められたシーリの魔力が人狼の体を包む。リノの祈りも篭ったそれは、人狼へと活力を与え、まるで時間を巻き戻すかのように傷を癒していく。それとと同時にそれは侵食を急速に速め、より深く彼女の肉体と魂は人狼と混ざり合っていく。


 それはやがて、人狼を起点に風となって吹き荒れ、ケモノは困惑したような声を漏らすとゆっくり、警戒したように後ずさる。ヤゴンも警戒した様子で静かに距離を取る。


「リゼス!」


 リノの声が響く。すると、彼女の治療によって何とか一命を取り留めていたシーリが意識を取り戻し、魔力の渦の中で立ち上がる人狼へと手を伸ばす。


「リゼス……」


 弱々しくもしっかりとその声が聞こえた人狼は、シーリを一瞥する。そして、喉を天へと向け、轟くような咆哮を上げる。そうすれば、人狼を纏っていた魔力の渦は全て、その体へと吸い込まれていく。


『――ゥォォォォォオオオオオオオオオオッ!』


 骨の髄を叩くような重低音。その音は突風のようにケモノとヤゴンへと叩き付ける。ヤゴンはその風を片手で防ぎながら、人狼を見るなり驚愕の表情を浮かべた。


「なっ!? おい待て、なんで――目の色が変わってんだよ!」


 そうヤゴンが叫び――紅玉のように赤く輝く瞳を爛々と輝かせた人狼を指さした。通常、人喰いが進化をするには長い時間がかかり、瞳の色もゆっくりと変わっていくものだ。

 だが稀に、急激な進化を遂げる個体もいる。それは、爆発的に体内の魔力量が上昇した時などにおこるのだ。そして、そのような進化を起こした物は総じて強大な力を持っている。

 サファイア色だった時点で、あれほどの強さを持っていたのだ。それが進化したらいったいどれほどの力を持っているのか。彼は想像し自分の背筋に冷たい何かが走り抜けていくのを感じる。

 あれは、先ほどの化け物とは比べ物にならないほどの力を持っている。それと、ライズが戦えばおそらくライズが負けてしまうだろう。それは面倒だった。せっかく、実験の成果が出たのにそれを壊されては貯まったものではない。

 だが同時に彼は考える。あれを持ち帰ればきっと聖騎士団はさらならる力を手に入れられる。そう考えてしまえばやることは一つだ。彼はニヤリと笑ってライズへと指示を出す。


「おい、あれを倒せ。そしたら、あの死体は持ち帰る。あれは、俺たちに必要だ」


 その言葉を合図にケモノは野太い声を上げて人狼を睨む。ぞして、小さく唸りを声を上げた次の瞬間には、人狼へと飛び掛かりその牙で右肩をかみ砕いてやらんとその咢を開いた。

 だが、その牙が届くことはない。寸でのところで人狼が獣の顔を右手で握り潰したからだ。


『ゴァァァァァアアアアアアッ!?』


 頭蓋骨が砕け、飛び出したケモノの眼球が地面を転がる。ケモノは咄嗟に逃げようとするが、人狼はそれを許さないと言わんばかりにケモノを地面へと引き倒し、右足を根元から引きちぎる。ブチリと肉筋肉の千切れる音とケモノの絶叫が響き渡る。

 ケモノはどうにかして逃げ出そうとするが、人狼はまるで何かしているのかと言いたげな顔でケモノを見下ろす。だがそのうちに飽きたのか、人狼は再生したケモノの頭部へと拳を叩き付けた。


『ギャッ』


 ケモノがそんな声を上げて、だらりと脱力する。人狼はとどめだと言わんばかりにケモノの胸を思い切り踏みつける。強靭な骨を砕きその奥に守られた心臓をも砕く。驚異的な再生力を有する存在と言えど、頭と心臓を潰されてしまえば生きてはいられないだろう。



「おいおい、まじかよ。あっさりと殺しやがった……」


 ヤゴンはそう吐き捨てるなり脱兎の如くその場から逃げ出す。だが、人狼がそれを許さない。ガパリと大きく口を開いた人狼は魔力を込め――


『グォォォォォォォオオオオオオオオオンッ!』

「なっ、咆哮だと!? なんでそれが使えて……」


 彼はそれ以上言葉を続けることはできなかった。放たれた魔力がその背中に激突し、電流の走るような衝撃と共に地面へと顔面から倒れ込んでしまう。小さくうめき声を上げた彼はすぐさま立ち上がろうとするが……まるで神経全てが破壊されたかのように体が全く動かないことに気が付くだろう。

 人狼はそのぶつけた魔力で彼の神経を損傷させたのだと彼が答えを出すのにそう時間はかからなかった。だからこそ彼は戦慄する。それほどのことをできるのはエメラルドの人喰いレベルだと知っているから。


 人狼がゆっくりと大地を踏みしめるようにやって来る。彼は歯をガチガチと鳴らして逃げようとするが、動かない体では何もできず、ただ惨めったらしく「来るな!」叫ぶことしかできない。

 だが、人狼がその願いを聞き入れる義理はない。彼の頭を押さえつけ至近距離から顔を覗き込む。ギロリと赤い瞳が怯えきった彼の顔を反射している。


「や、やめろ……やめ、てくれ……」


 彼は思い出す。初めて人喰いと対峙した時の恐怖を。だが今起こっていることはその時よりもずっと強恐ろしく、頭がどうにかなってしまいそうなほどの恐怖が彼を支配する。


「わる、かった……あや、まる、から……」


 必死に懇願する彼の思いはむなしく。人狼は軽く手に力を入れると、彼の頭を砕きあっさりと命を奪う。


「か、あ……っ」


 潰れた頭蓋骨から脳や体液が溢れ出し、不快なニオイが立ち込め人狼の手を濡らす。手についたそれを軽く払った後、地面に倒れているケモノへと視線を移す。

 

 その時だった、ケモノの体から大量の黒い煙のような魔力が噴き出す。それが一瞬だけケモノの姿を覆い隠し、晴れた次の瞬間には傷だらけのライズの姿があった。血だまりの中央で倒れ込む彼を見たリノはグッと唇をかみしめたが、彼が僅かに動いたことに気が付くとすぐさま彼の元へと向かいたい思いを堪える。


「リゼス」


 リノがそう名前を呼んだ時、人狼はケモノからリノの方へと顔を向ける。だがその時、彼女は感じとるだろう。


――あれはリゼスではない。理性を失った獣であると。


 目が覚めるほどのルビー色の目が焦燥を浮かべるリノと、苦し気に瞳を閉じて傷口を抑えるシーリを映す。だが何度も見てきたからわかる。今目の前にいるそれはこちらの様子を伺っているのだと。それは、仲間という意味ではなく、敵又は食料という目で。それほどまでに、いつもであれば綺麗だったその瞳は爛々といつもと全く違う輝きを放っていた。

 リノは小さく唾を呑む。今はこちらの様子を伺っているようだが、長年、人喰いと戦ってきていたからわかる。あれはいずれ、こちらを襲う。

 その状況だけは何としても避けなければいけない。だが、何かしらの対策を講じようとしたした瞬間に、目の前のソレはケモノを倒したときのように襲い掛かってくるに違いない。


「……っ」


 怖いとリノは思った。だがそれは、自分が死ぬかもしれないという未来にではない。このままソレがこちらに襲い掛かった時に訪れるリゼスの結末が怖かった。

 人を襲えば人狼という仲間ではなく、人喰いという敵としてみなされ、殺されてしまう。リノはソレをまっすぐに見つめる。そして、意を決して口を開く。


「リゼス、帰ってきて」


 その声にソレは特に反応を見せることはない。リノはやはり自分の言葉は届かないかと確信すると、小さく「シーリ」と呼んだ。


「リ、ノ……」

「苦しいところごめんね。でも、今この状況をどうにかできるかもしれないのはシーリだけなの」

「なにを言って……っ!?」


 瞳を開けたシーリは佇みこちらを観察するソレを見るなり、状況を理解し痛みも忘れて驚愕の色を浮かべた。


「いったい、なにが……いや、それよりも止めなければ」


 体がだるい。頭がボーっとして手足に力が入らない。なんとか、傷口は塞がってはいるものの、傷の回復に自分の魔力のほとんどを回しているためこれ以上魔力を使えばおそらく魔力が枯渇してしまう。以前に魔力を枯渇させたときは一週間ほど苦しむ羽目になったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


 シーリは深く息を吸って魔法を発動させた。


「リゼス、そこに跪きなさい」


 お互いに刻まれたセルシオンが輝く。シーリは無事に魔法が発動したことにホッとしたが――


『ッォォォォオオオオオオオオオオオオ!』


 凄まじい咆哮が轟く。跪くことなくジロリと鋭くシーリを睨むその瞳から感じ取れるもの。それは拒絶の意志だった。ジクリとした痛みがシーリの心を傷つける。ソレは唸るように喉を鳴らし威嚇するように牙を見せる。

 本気の殺意がシーリを貫いていく。ゾクリとした悪寒を彼女は感じとるとほぼ同時にリノを突き飛ばし自分も反対方向へと転がった。


「ちょ、シーリ!? いきなり何を――」


 次の瞬間、ソレの拳が大地を砕いた。ガゴンというすさまじい音と共に拳大の砕けた大地が降り注ぐ。シーリはなんとか立ち上がり、近くに落ちていたリゼスの剣を拾上げ構える。

 リノはぶんぶんと顔を振って埃を払うと、即座に水の鎖でソレを地面へと縛り付ける。ルビーの人喰いをまとめて10体ほど縛り付けることのできるほどに強力なものだが、それをもってしても長時間拘束はできないだろう。


「シーリ! リゼスはどうしちゃったのよ!」

「わかりません。ですがおそらく、急激な進化によって理性を失っていしまっているのかもしれません」

「どうすれば治るの!」


 ブチブチと水の鎖を引きちぎりながら、ソレは立ち上がる。


「死ぬ寸前まで叩きのめします。そして……私の魔力を直接セルシオンに注ぎます。そうすれば、もしかしたら理性が戻るかもしれない!」


 シーリはリノを見る。そのまっすぐ眼差しにリノは二っと笑って親指を立てる。


「援護は任せなさい!」

「任せました!」


 鎖がすべて消え去りソレがシーリめがけて駆け出す。剣を構えた彼女も駆け出すと、まず、繰り出されたソレのかぎ爪をかいくぐる。その直後、リノがいくつもの風の刃を発射。ソレの毛皮を切り裂くことはできなかったものの、体勢を大きく崩す。

 その隙を彼女は逃さない。炎の魔力が充填された剣を振り上げる。ソレは咄嗟に左腕で防ごうとするが、炎の剣はあっさりとその左腕を切り飛ばしその肉体を燃やす。


『グルォォォォオオオオァァァァアアアアッ!』


 凄まじい速度で燃え上がり火だるまとなったソレは体から魔力を放出してその炎を吹き飛ばす。煙を纏ったソレが憤怒の色をその目に浮かべ、一瞬のうちに左腕を再生させると拳を握りハンマーのように振り下ろす。シーリは横に飛んで回避すると一旦距離を取る。


「……強い」

「再生能力も魔法防御もかなりものね。いけるの?」

「いけます。リノ、剣を氷で覆ってくれませんか」

「りょーかい」


 フッと息を吐くように魔力を飛ばせば、一瞬にして剣を氷が覆う。シーリは「ありがとう」と笑みを浮かべると、柄を握り締める。


「リゼス、必ず貴女をこちら側へと戻します。だから……」


 冷気が辺りを包む。ソレがシーリの気配の変化を感じとり警戒した様子で臨戦態勢を取る。


「少しだけ、痛い目を見てもらいますよ」


 その言葉と同時にシーリの姿が消える。まるで、陽炎ように掻き消えた彼女を探そうとソレが視線を巡らせた次の瞬間、ソレの両手足が宙を舞った。


『グルァッ!?』


 突然のことに声を上げながらソレの体が地面へと落ちる。ソレはすぐさまに体の再生をしようとするが、すべての傷口が凍り付いているために再生することができないのだ。ソレは困惑と怒り混じりに咆哮を上げた。


「リゼス」


 その時、いつの間にかソレへと馬乗りになったシーリが静かに名前を呼ぶ。ソレは噛みついてやらんと口を開くが、シーリが微笑むとその咢が一瞬にして凍り付き、ソレは驚きにくぐもった声を漏らす。

 シーリはもう動くことのできないソレの頬を優しく撫でる。その表情にはいくらかの苦痛が浮かんでいる。無理もない、体の魔力をほとんど使って身体能力を大幅に強化してこの状況へと持ち込んだのだから。頭痛と吐き気に頭がどうにかなってしまいそうだった。

 それでも、彼女を取り戻せるのであれば、この程度、いくらでも耐えてみせる。


「リゼス、戻ってきてください」


 お互いに刻まれたセルシオンが赤く輝く。だが、それだけで、ソレの理性が戻ることはなく、敵意の篭った眼がシーリを睨む。シーリは小さく息を吐くと、諦めずに何度も名前を呼ぶ。


「リゼス、貴女は人間だ。ケモノに堕ちてはいけない」


 ゆっくりと語り掛けるようにソレの全体へと魔力が回るように。すると、徐々にであるがソレの目つきが変わっていく。


 敵意から困惑。そして――


『シ、リ……サ、マ』

「リゼス!」


 たどたどしく紡がれる言葉には確かに、彼女の言葉だった。


『ゴメ、ン、ナサイ……ワタ、シ……アナタノ、カゾク、ヲ……コロシ、テ、シマッタ』


 少し硬めの毛皮を撫でながら、シーリは愛おしむように微笑み首を振る。そして、チラリとリノへと頷けば、リノはライズの元へと向かう。


「大丈夫。かろうじてだけど、ライズは生きているわ」


 リノがそう言えば、人狼はホッとしたように目を細める。


「リゼス、よく戦ってくれました。みんな、みんな生きています」

『シーリ、サマ……』

「リゼス」


 二人のセルシオンが煌めく。シーリは、今度はいけそうだと確信すると、そっと人狼の額に口づけを落とす。


「少し眠りましょう。ゆっくり休んでください」


 その言葉に従うように人狼はゆっくりと瞼を閉じる。そしてすぐにその体を包むように煙が立ち込め、人間の姿へと戻ったリゼスは無傷の状態で穏やかな寝顔を見せていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る