第9話 あの日を思い出すには十分



 探索を始めて数時間後、シーリは騎士に休憩を与えると、手ごろな岩の上に腰を下ろした。その顔には色濃く疲労が浮かび、ほかの騎士が萎縮するほどに険しい。

 理由はもちろん、全く成果の出ないこの調査についてである。


「やはり、目撃者の勘違いだったのか」


 そう判断せざる終えないほどに、何もない。魔力の残滓すらないとなるともうそうとしか言えないだろう。まぁ、騎士でいればこういったことはよくあることなので“何もなくてよかった”で終わらせられるのだが……


「この任務に来てからずっと感じている子の不穏な気配はいったい……」


 思えば、父である団長からこの任務を言い渡されてか、漠然とした嫌な気配を感じていた。最初は、試験としてサポート班が一緒に行くことに対する僅かな不安がもたらした緊張かと思っていたが、任務で彼女たちの働きに安心した時ですら、グルグルとまるで胸やけのようにその気配はずっと胸にあった。


「やはり、早々に帰還すべきか」


 ふと、脳裏にリゼスの顔が浮かぶ。仕事は順調と言っていたが、慣れない環境にきっといつも以上の疲労を感じているはずだ。彼女たちのためにもやはり、今日で終了して明日の早朝には帰還すべきだ。

 そうと決めれば、限界まで調査を続けよう。


「……よし」


 シーリが岩から腰をあげようとしたとき、電流が走り抜けるように背筋に寒気を感じる。弾かれるように顔を上げるとそこには、一体の巨大な獣が立っていた。

 2メートルは優に超えるだろうそれは黒い毛皮に覆われ、赤い色の瞳をギラリと煌めかせる。人を噛み殺すなど容易だというように鋭い牙の並んだ巨大な咢を開いたそれは、まるで最初からそこにいたというほどに気配すら感じさせずにそこに立っていた。


 それが人食いなのだと、考えるまでもなかった。


「なっ」


 その声が先だったか後だったか。人喰いは一番近くに立っていた男性騎士へと飛び掛かると、その頸椎に食らいつきへし折る。


「ぐが……っ」


 小さくうめき声をあげた男性騎士はそのまま崩れ落ち、息絶える。人喰いはゆっくりと顔を上げると再び近くの騎士へと飛び掛かって同じように頚椎へと食らいつき、一瞬のうちに命を刈り取る。

 あまりにも突然のことで、騎士たちもシーリでさえも、状況が理解できずに呆然と立ち尽くしてしまう。だがそれは、この場において殺してくれと言っているのと同義である。

 ゴキリ、バキリ。骨が砕ける音がただ静寂に包まれていた森に響く。


「――全員! 戦闘態勢!」


 数拍置いてハッと我に返ったシーリはそう叫ぶや否や、腰の剣を引き抜くと同時にいまだに騎士を殺し続ける人喰いへと斬りかかる。

 シーリの剣が人喰いの首を捉える一歩手前、凄まじい反射速度で人喰いはバックステップでその一撃を躱す。目標を捉えることのできなかった剣は硬く乾いた地面を砕いて砂埃を巻き起こす。

 その音が合図だった。我に返った騎士たちはいっせいに武器を取り人喰いへと攻撃を仕掛けるが、人喰いはまるで未来でも見えているかのように紙一重で躱すと同時に、攻撃を仕掛けた騎士たちを次々とその爪で切り裂いていく。


「ぐあぁぁぁぁっ!」

「がっ!?」

「きゃぁぁぁぁっ!」


 まるで、紙でも切るかのようにあっさりと鎧ごと真っ二つにされた騎士たち。切り裂かれたそこから臓物と真っ赤な血が川のように流れだし、あっという間におぞましい光景とニオイに包まれる。


「まずい、ルビーだ!」

「応援をよべぇぇぇぇぇッ!」


 そう男性騎士が叫んだ次の瞬間には、彼の体は人喰いの爪によって真っ二つにされ地面に転がっていた。あっという間に騎士たちは混乱状態へと陥りやたらめったらに人喰いへと攻撃を仕掛けるもの、逃げ出すもので別れた。


「まずい」


 こんな状態では連携なんて無理だ。シーリは一体どうしてこうなったんだと柄をへし折りそうなほどの強さで握り締めると地面を砕くほど強く踏み込み、人喰いへと斬りかかった。

 人喰いはシーリの気配に気付くと、たった今、頭を握り潰した騎士の体を持ち上げソレで防ぐ。鎧を切り裂き、その肉体に剣が深く突き刺さる。


「なんてことを……っ!」


 シーリはそう吐き捨てると咄嗟に剣から手を放して距離を取る。そして、その行動は正しかったようだ。人喰いは次の瞬間にはその爪で騎士の体を三等分に引き裂いていた。あのままその場にいれば今頃彼女の体も一緒に切り裂かれ地面に肉塊となり果て転がっていただろう。

 だが、シーリは自分が死ぬかもしれないということよりも、目の前のそれが騎士を盾に使ったことに強い怒りを感じていた。と、同時に咄嗟に剣を逸らすことすらできない自分の未熟さにも嫌気がさしていた。


「申し訳ありません」


 盾に使われた彼女に小さく謝罪の言葉を述べると、シーリは近くの騎士の死体から剣を拝借する。その時、背後でバシュンと信号弾の発射音が聞こえる。と、言っても安心はできない。ここは森の中でもかなり奥の方だ。救援が来るまでかなりの時間を要するだろう。


「やることは一つか」


 ここで一番の最善の行動はとにかく、仲間を逃がすことだろう。混乱状態ともいえる彼らを戦闘に参加させたところで、ルビー相手ではシーリからすると逆に邪魔でしかない。

 

 息を吐き出すと同時に、シーリは人喰いの注意を引く効果のある魔法を発動させる。すると、シーリを取り巻くように特殊な魔力が渦巻き、それに気付いた人喰いが殺戮をやめてシーリへと振り向く。

 うまく気を引くことに成功したようだ。ゆっくりとした動きで人喰いがこちらにやってくるのを確認したシーリは近くにいた比較的落ち着いている騎士へと声をかけた。


「私があの人喰いを引き付けます。その間にここから撤退してください」

「た、隊長一人でどうするんですか」

「とにかくここから離れます。その後はまぁ、状況に応じて対応するしかありませんね」

「な、ならば私も一緒に戦います!」


 震えながら彼女は剣を抜こうと柄に手をかける。シーリは小さく首を振って彼女の柄に手を添える。


「平気です。それよりも早くここから離脱してください。なんだか、とても嫌な予感がします」


 そう言うが早いか、彼女が口を開く前にシーリは森の奥へと駆け出す。人喰いは天へと轟くほどの咆哮をあげてシーリの後を追いかけた。


「だめだよ、隊長だけじゃ殺されちゃう……ッ!」


 騎士が震える体を叱咤し、シーリを追いかけようとしたその時だった、彼女は背後に人の気配を感じ振り向く。そこには一人の男が立っていた。


「貴方、誰……?」


 明らかに騎士ではない見た目の人物にそう声をかけた時、男はニヤリと笑った。






「赤色の信号弾……マズいわね」


 空に走った赤色の閃光を見ながら、リノはそう言葉を零す。その表情には緊迫の色が濃く浮かんでいる。


「なにが起こったのでしょうか」

「緊急の信号弾には2種類あって、黄色は対処可能だが支援を要するもの。そして赤色は――現状では対応不可、至急応援を要するもの。今回の場合はおそらく、人喰いを見つけて交戦中と考えた方がいいかもね」

「え、それって……マズいじゃないですか! すぐに誰かに行ってもらった方が!」


 シーリに何かあったのかもしれない。そう考えると、リゼスは許されるならば自分が行きたいぐらいだ。まぁ、行ったところで自分なんて足手まといの何物でもないかもしれないが。

 リゼスが焦りを覚える一方で、緊迫した色を浮かべてはいるものの、リノはいたって冷静と言った風に森の奥を見据えている。その様子にリゼスは懐疑の目を向ける。と、それに気付いたリノは軽く目を細めた。


「助けに行きたいのは山々だけど、拠点に残ってる騎士は全員、その事態に対応できるほどの技量を持った者はいないわ」

「ならば、リノ様が――」

「そうしたいのは山々だけど、私は副隊長でここを任されているから簡単には動けない。それに私が下手に動くと拠点に組んだ結界が解けてしまう。それは避けなきゃいけないの」


 冷静にそう彼女は言ったが、その声色には強い怒りの色が浮かんでいることに気付いたリゼスは口をつぐむ。リノは少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げると、


「とりあえず、一度拠点に戻りましょう」


 と言った。




 拠点に戻るなり、見回りの騎士たちが鬼気迫った様子でリノの元へとかけてきた。


「リノ副隊長! 信号弾を見ましたか!」

「きっと人喰いを見つけたんですよ! すぐに応援に行きましょう!」

「何言ってんだ、俺たちで人喰いに対抗できるわけないだろう! すぐに本部に戻って討伐隊を組むべきだ!」


 彼らは口々にそう言って次第にそれは険悪な空気を作り上げる。少し離れたところで雑用係の少女二人が不安げにリゼスと騎士たちを交互に見やっている。


「助けを求めているのに見捨てろと言うのか!」

「違う、俺たちが行ったところでエサにしかならないと言っているんだ! ならば、討伐隊を呼んだほうがいいだろ!」


 今にも殴り合いが起きそうなほどの空気。リゼスは無意味と分かっても止めに入ろうとしたその時、リノが静かに口を開いた。


「森にはリゼスを行かせるわ」


 その言葉にその場にいた全員が固まった。無論、リゼスも驚愕を浮かべて固まっていた。


「ふ、副隊長……な、何を言っているんですか……ざ、雑用係を行かせるなんて……」

「そうですよ。あ、貴女はソイツをエサにでもする気ですか! そうするぐらいなら俺が代わりに行きますよ!」


 リノを批難するようにそう言った青年騎士の一人が名乗りを上げる。リゼスは、驚きつつもそれよりも自分の代わりに死すら厭わない彼に胸が熱くなっていた。


「なにも死ぬために行けと言っているわけじゃないわ。この子は戦える。きっと、この場にいる誰よりも強い」

「なっ」


 リノ以外の騎士が絶句する。無理もない。リゼスは雑用係である。そんな彼女が戦えるはずないと考えるのは普通のことである。

 軽く肩をすくめたリノはどこからか剣を持ってくると、それをリゼスへと手渡した。


「リゼス、前に渡した風の魔法薬は持ってきているわね?」

「え? あ、はい念のため。ベルトに着けています」


 そう言いながらシャツを捲り、ベルトに装着された緑色の魔力が入った瓶を見せる。と、リノは満足げに頷き、「じゃあこれも渡しておくわ」と言って、赤色と青色の魔力が入った二つの小瓶を手渡す。


「よし、じゃあさっそく。副隊長として命令します。リゼス、至急、信号弾のあった場所へと向かい、状況を確認、場合によって戦闘も許可します」

「リノ副隊長!」

「これは決定事項です。意見も拒否も認めません。リゼス、行きなさい」


 有無を言わさない声。リゼスはほぼ反射的に「はい」と返事をしていた。ほかの騎士たちは止めようとしていたが、諦めたようにリゼスを憐れむような目を向けた。


「ほかの者は撤退の準備を始めて。調査隊が帰ってくれば状況の確認とケガ人がいれば治療にあたるように。リゼスは森で騎士に会ったら撤退の準備を始めていることを伝えてここに戻るように言うこと、わかったわね」

「はい」

「よし、じゃあ出発して」





 踵を返して出発しようとしたリゼスに一人の青年騎士が声をかける。それは先程、自分がリゼスの代わりに行くと申し出てくれた人物であった。


「リゼス、これを持っていけ」

「これは」


 手渡されたそれは小さな黄色のナイフだった。


「これには人喰いの動きを一時的に鈍らせることができる。まぁ、防護の薄い腹とか首に刺さないと意味がないがな。でも、戦いではなにが命を救うかわからない。これがお前の危機を救うことを祈るよ」

「……ありがとうございます」

「いいか、人喰いがいるところではなにが起こるかわからない。十分に注意するんだぞ」

「はいっ」







 腰に剣を下げ、リゼスは一人で森を疾走する。その速度は馬よりもずっと早く、あっという間に信号弾が放たれた場所にたどり着くことになるだろう。


「……な、なんだこれは……っ」


 そこには幼き日に見た地獄を連想させる光景が広がっていた。首と胴体がバラバラとなった死体、切り裂かれ臓物と血をまき散らした死体。むせ返るほどの死のニオイが鼻を劈いていく。それを前にしてリゼスの心臓がドクリ、ドクリ、と憎悪の音を立てる。

 憎い、全てを奪うヤツラが憎い。黒い感情が心臓から血液を通って全身をめぐる。


「人喰い……っ」


 折れた武器や死体の間を縫ってリゼスは人喰いと思われる巨大な獣の足跡を見つけると、その場に片膝をつき、足跡の行き先を見る。


「森の奥に行ったか」


 自分でも驚く程に温度のない声が口を突いて出た。グッと地面に置いた手に力がこもる。


――仇を取れ。家族や友人が苦しんだろう? やっと武器を持てたのだから人喰いを見つけ次第残らず殺すべきだろう。


 頭の中で自分の物かと疑うほどに冷たく澱んだ声が響く。リゼスは響く自分の声に「わかっている」と答えると、静かに立ち上がる。


「拠点から来た騎士なの?」


 その時、弱々しい声がかかる。ハッと振り向けば、死体の中でかろうじて生き残った者がいたようだ。リゼスは急いでそこへ駆け寄り、言葉を失った。


 そこにいた女性は目も手足も無くなっていた。この状態ではたとえ治療班に見せたところで助かる見込みはないだろう。


「……はい、信号弾を見て駆けつけました。私が一番早く辿り着きました。すぐにほかの騎士も来ます」

「そう、よかった……人喰いが、出たの……それで、シーリ隊長が人喰いを引き付けて森の奥へ」


 口から血を吐き出しながら彼女は最後の力を振り絞り、言葉を紡ぐ。


「おね、がい……たい、ちょうを……」


 だが、言葉を最後まで紡ぐことができずに女性はそのまま力を失い、がくりと項垂れる。リゼスは女性の体にそっと手を添えて、ゆっくりと地面に横たわらせた。


「シーリ様は必ず、お助けします」


 そう誓いを立て、リゼスは森のさらに奥へと急いだ。

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